南ベトナム解放民族戦線(読み)みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん

改訂新版 世界大百科事典 「南ベトナム解放民族戦線」の意味・わかりやすい解説

南ベトナム解放民族戦線 (みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん)

1960年12月20日,当時,南ベトナムの政権を握っていたゴ・ディン・ジェム政権に反対する民族主義者を中心に,広範な階層を結集して結成された反米・反ジェムの民族統一戦線。63年にジェム政権がクーデタで倒れた後も,民族独立,アメリカ勢力の排除,進歩的民主主義制度と平和・中立政策の実現を目標として,北ベトナムおよび社会主義諸国の援助を得て南ベトナム解放闘争を進め,しだいに勢力を拡大した。69年6月にはベトナム民族民主平和勢力連盟とともに南ベトナム臨時革命政府を樹立し,73年1月のベトナム和平に関するパリ協定によって,サイゴン政権と並んで南ベトナムの一方の政権を担当する勢力としての立場を確立した。パリ協定締結後も協定順守の名目で戦闘を続行し,ついに75年4月南ベトナム全土解放に成功した。これにより,解放戦線を母体とする臨時革命政府は南ベトナム唯一の正統政府となったが,南ベトナムの政治の指導権はベトナム労働党と北ベトナムのハノイ政権が実質的に掌握し,解放戦線と臨時革命政府の指導力は事実上低下した。76年6月のベトナム社会主義共和国成立で解放戦線はその歴史的任務を終え,ベトナム祖国戦線統合されることになった。なお解放戦線の議長であったグエン・フー・トは,81年7月国会議長,国家評議会副議長に選出され,同書記長であったフィンタンファットも国家評議会副議長に選出された。また解放戦線副議長の1人でベトナム革命人民党の書記長でもあったボー・チ・コンは,82年3月のベトナム共産党第5回全国代表大会で政治局員兼書記局員となった。
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百科事典マイペディア 「南ベトナム解放民族戦線」の意味・わかりやすい解説

南ベトナム解放民族戦線【みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん】

1960年に結成された南ベトナムの民族統一戦線人民革命党など多数の団体が参加。1961年各武装勢力を統合して人民解放軍を編制し,反米・反政府闘争(ベトナム戦争)を強化するとともに解放区の建設,在外機関の設置などを行った。1969年6月の国民大会で臨時革命政府を樹立し大部分の省に人民革命委員会を設けた。1975年4月,南ベトナム全土の解放に成功し,1976年6月,南北ベトナム統一を実現した。1977年ベトナム祖国戦線に統合。なおベトコン(ベトナム共産主義者)は同戦線結成前から反政府武装勢力に対する政府側の俗称。
→関連項目グエン・フー・トゴ・ディン・ジェム人民革命党ベトナム共和国ロン・ノル

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南ベトナム解放民族戦線」の意味・わかりやすい解説

南ベトナム解放民族戦線
みなみべとなむかいほうみんぞくせんせん
National Front for Liberation of South Viet Nam

西側ではベトコンVietcong(ベトナム共産党)とよんでいた。1960年12月20日、南ベトナムの各種政党や社会団体、宗派組織、民族団体はじめさまざまの勢力が参集し、アメリカの帝国主義勢力とゴ・ジン・ジエム政権を打倒、南ベトナムに民族民主政権をつくり、民主主義制度を確立することを目標として結成した民族統一戦線。議長はグエン・フー・ト(弁護士)。62年1月、南ベトナム人民革命党が組織されて解放戦線の中核体となる。解放戦線はサイゴン政権の警察政治、強大なアメリカの軍事力に対して熾烈(しれつ)な戦いを継続しつつ、69年6月南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立、73年1月にはベトナム和平協定に調印、75年4月北ベトナム軍とともにホー・チ・ミン作戦を行って南ベトナムの解放を成し遂げた。南北の統一後、77年2月解放戦線は北の祖国戦線と合体、その使命を終わった。

[丸山静雄]

『W・G・バーチェット著、真保潤一郎訳『解放戦線』(1964・みすず書房)』『本多勝一著『戦場の村』(1968・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南ベトナム解放民族戦線」の意味・わかりやすい解説

南ベトナム解放民族戦線
みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん
National Front for the Liberation of the South Vietnam

1960年 12月 20日に南ベトナムのキエンホア省モッカイ郡で結成した統一戦線。それまで各地で行われていた民衆の広範な政治闘争と散発的な武力闘争を合体したもの。アメリカなどは,これを南ベトナムの共産勢力の組織であるという意味で,ベトコンと呼んだ。この統一戦線には,各種の政党,大衆団体,宗教勢力が参加し,議長には弁護士グエン・フー・ト,副議長に各党派,団体の代表数名,書記長に急進社会党のグエン・バン・ヒューが選ばれた。またその行動綱領として,アメリカの植民地主義とゴ・ジン・ジェムの独裁を打倒して,民族民主連合政府を樹立することなど 10項目が掲げられた。その後 61年2月には南ベトナム人民武装勢力の統一が実現し,62年1月には人民革命党 (共産党) が解放戦線に参加して,以後運動の実権を握ることになった。解放戦線の結成後,アメリカはいわゆる特殊戦争から局地戦争へと戦争をエスカレートさせたが,これに抵抗し,反撃する過程で,解放戦線は実力を高め,解放区を拡大していった。特に 68年のテト攻勢,69年のテト明け攻勢で,アメリカ軍と政府軍に大打撃を与え,その間に成立したベトナム民族・民主・平和勢力連合と協力して,臨時革命政府樹立への道を開いた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「南ベトナム解放民族戦線」の解説

南ベトナム解放民族戦線(みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん)
Mat Tran Dan Toc Giai Phong Mien Nam Viet Nam

南ベトナムで,ベトナム共和国の親米政権を打倒し南北ベトナムの統一を実現するために,1960年12月に結成された組織。ベトナム労働党が中核的役割を果たし,北ベトナム(ベトナム民主共和国)の支援を得た。その勢力拡大にあわてたアメリカが軍事介入を強化したため,ベトナム戦争が拡大した。69年に結成された南ベトナム共和臨時革命政府の母体になり,ベトナム戦争後の76年に解散。

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世界大百科事典(旧版)内の南ベトナム解放民族戦線の言及

【インドシナ戦争】より

…一方,ジェム大統領は民主共和国を中国,ソ連の衛星国とみなし,統一選挙を拒否してアメリカの軍事・経済援助に傾斜したため,両国は完全な対立関係に入った。しかし,南部メコン・デルタにおける土地改革の失敗や大統領一族の独裁体制は,農民,都市知識人の反発を買い,60年12月20日,アメリカ・ジェム権力打倒,民主主義の確立,農地改革などを綱領とする南ベトナム解放民族戦線が成立,政府軍との抗戦状態に入った。 またラオスでは57年11月,パテト・ラオを含めたプーマ連合政権が成立したが,58年8月,アメリカの支援の下に右派内閣が生まれ,内戦が再開した。…

※「南ベトナム解放民族戦線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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