中国、明(みん)の遺臣。父は鄭芝龍(ていしりょう)、母は日本人田川氏の娘で、日本の平戸(長崎県)で生まれた。幼名は福松。7歳のとき、中国福建省泉州安平鎮にいた父のところに単身で赴き、名を森(しん)と改め、ついで南京(ナンキン)の大学で学んだ。1645年に福建に帰り、父芝龍ら明の遺臣に擁立された唐王隆武帝から、明の皇帝の姓である「朱」を称することを許されて成功と改名し、忠孝伯に封ぜられた。成功が「国姓爺(こくせんや)」とよばれるのは、明の国姓である朱姓を与えられたからであるが、彼は自ら朱成功と称することはなかった。46年に父芝龍は清(しん)に降伏し、母は安平城で自殺した。成功は抗清復明の理想を捨てず、福州が父たちに落とされて隆武帝が捕らえられると海上に逃れた。48年には日本に援兵を請う使者を送ったが、江戸幕府はこれを黙殺した。
成功は1649年に桂(けい)王永暦帝(えいりゃくてい)から威遠侯、ついで漳(しょう)国公に封ぜられ、50年には厦門(アモイ)、金門の両島に根拠を置いた。こののち10年間にわたり、福建、広東(カントン)、浙江(せっこう)の沿海を経略し、さらに日本、ルソン、交趾(こうち)(ベトナム北部)、シャム(タイ)や南洋方面と貿易して勢力を蓄えた。日本の長崎には毎年のように、いわゆる国姓爺船が入港した。53年には福建省海澄で清軍を破って延平郡王に封ぜられた。58年10万5000の兵をもって北伐の軍をおこしたが、暴風雨に妨げられて挫折(ざせつ)した。翌59年に再度北伐軍を編成して瓜(か)州、鎮江を攻略し、南京城を包囲した。しかし、内応と奇襲にあって、一時崇明(すうめい)島(揚子江(ようすこう)河口の島)に拠(よ)ったが、まもなく厦門に退いた。61年、清は福建、広東など沿海の五省に遷界令(せんかいれい)を実施し、沿海の人民を内陸へ移して鄭氏と接触することができないようにした。このころ大陸の敗兵で台湾に渡った者は2万人を超え、成功は台湾を攻略して基地にすることを決意した。同年2万5000の兵で台湾に行き、オランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾を占領してその経営にあたった。成功はさらにルソン島招諭の計画をたてたが果たすことなく、62年5月8日(陽暦6月23日)台湾で病死した。近松門左衛門の『国性爺(こくせんや)合戦』は、成功の事績を題材にした浄瑠璃(じょうるり)である。
[田中健夫]
『石原道博著『国姓爺』(1959・吉川弘文館)』
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中国,明の遺臣。字は明儼。忠節と諡(おくりな)される。父は鄭芝竜,母は日本人田川氏の娘で,日本の平戸で生まれた。幼名は福松。7歳のとき,中国福建省の父の許におもむいて名を森(しん)と改め,南京の太学で学んだ。1645年(順治2),福建に帰り,明の遺臣に擁立された唐王に従い,明皇帝の姓〈朱〉を称することを許され,成功と改名し,忠孝伯に封ぜられた。鄭成功が〈国姓爺(こくせんや)〉とよばれたのは朱姓を与えられたからである。父が清に降伏したのちも抗清復明の理想を捨てず,福州陥落後は金門島を拠点として,中国大陸沿岸を経略し,日本や南海の諸地域と貿易活動を行った。しばしば日本に援兵の派遣をもとめ,53年(永暦7)には延平郡王に封ぜられ,58年南京を攻撃したが敗北した。61年には2万5000の兵をもって台湾にわたりオランダ人を駆逐して,ここに根拠をおき,さらにルソン招諭の南進計画をたてたが,果たせずに病死した。彼の死後,清朝は諡号をおくり,建廟をゆるした。近現代の中国においても民族英雄として尊崇される。近松門左衛門の浄瑠璃《国性爺(こくせんや)合戦》は鄭成功の事績を題材にしたものである。
執筆者:田中 健夫
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1624~62
明の遺臣。父は鄭芝竜(ていしりゅう),母は日本人田川氏の娘で,長崎の平戸に生まれた。幼名は福松,のち南明の唐王から明朝の朱姓を賜わったので国姓爺(こくせんや)といわれる。明が滅亡し,父が清に降ったのちも,南明の永明王を奉じ,厦門(アモイ)を根拠としてひとり清に反抗を続け,一時は南京を攻めたが失敗した。一方父の有していた海上権を受け継ぎ,日本,琉球,台湾からルソンなど東南アジアの各地と海上貿易を行い利を得た。これに対し1661年清は遷界令(せんかいれい)を出して圧迫を加えたが,この年,成功はオランダ人を駆逐して台湾に拠り,翌年病死。あとは子の鄭経(ていけい)が継いだ。
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(岩崎義則)
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1624.7.14?~62.5.8
中国明の遺臣で武将。父は鄭芝竜,母は日本人田川氏。肥前国平戸生れ。幼名福松,唐名森。字は明儼(めいげん)。日本では国姓爺(こくせんや)として知られる。7歳のとき明に渡り南京に学ぶ。明の滅亡後は唐王に仕え,国姓(明皇帝の姓)である朱を賜り成功と改名。父芝竜の降清後も南シナ海貿易・日本貿易の実権を握り,復明運動の軍資金としたほか,日本にも数回請援の使者を送った。南京攻略に失敗ののち,1661年オランダ人を駆逐して台湾に拠ったが翌年病死。
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…明代に同安県嘉禾嶼(かかしよ)(今の厦門島)に城壁を築き厦門城と称した。鄭成功がこの地を占拠したとき,明の再興の意をこめて思明州と改称した。鄭氏の滅亡後,清は厦門庁をここに置き泉州府の管轄とした。…
…1715年(正徳5)11月から17年(享保2)2月まで閏月をはさんで3年越し17ヵ月の長期公演となった。50,60年以前の明・清抗争期に活躍した,父が中国人,母が日本人の鄭成功の英雄譚に題材をとった。明国が韃靼(だつたん)国に攻められ,壊滅の危機に至ったとき,明朝の遺臣鄭芝竜(老一官)と平戸浦の日本婦人との間に生まれた和藤内という青年が,父母とともに大陸に渡って明国の復興をはかる。…
…中国で1661年(順治18),清朝が台湾・福建地方を根拠とする鄭成功勢力に対抗するために沿海住民の海上貿易を禁止し,彼らを内地に移させた強制的移住令。清朝は沿海諸民と鄭氏との交通貿易を禁止することにより,その人的・物的資源を枯渇させ,自滅させることをもくろんだ。…
…しかしオランダの台湾支配も長く続かなかった。それは,61年(順治18)滅亡した明朝の回復をはかろうとした鄭成功が2万5000の兵をひきいて台湾に上陸,翌年,ゼーランジア城を攻めてオランダ人を追放し,南台湾を中心に〈反清復明〉の基地経営を試みたからだった。 鄭成功は対岸の福建省から移民を誘致するとともに,営盤田制をしいて開拓の進展を図った。…
…このとき別に魯王も張煌言らに擁され紹興(浙江省)に拠って監国と称した。 この両政権もうちに廷臣の不和があり,両者は反目を続けるうち清軍の攻撃をうけ,魯王は福建に逃れ,やがて鄭芝竜の子鄭成功を頼ることになる。一方唐王も福州が陥り,鄭芝竜の降清などにより湖広方面へ逃れようと図ったが汀州(福建省)で討たれた。…
※「鄭成功」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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