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南次郎
みなみじろう
(1874―1955)
陸軍軍人。大分県生まれ。陸軍士官学校6期。陸軍大学校卒業。陸軍省軍務局騎兵課長、支那(しな)駐屯軍司令官、参謀次長などを経て、1929年(昭和4)朝鮮軍司令官となる。1930年大将。1931年4月若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣陸相となり満蒙(まんもう)対策強硬論の立場をとった。同年9月の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に際しては、当初は不拡大の方針であったが、のちに拡大派に転じた。1934年関東軍司令官、1936年3月予備役に入り、同年8月朝鮮総督となった。1942年以降、枢密顧問官、大日本政治会総裁、貴族院勅選議員などを歴任。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁錮刑の判決を受ける。1954年(昭和29)病気のため仮出獄したが、翌年死去した。伝記に御手洗辰雄(みたらいたつお)『南次郎伝』がある。また「南次郎日記」の存在も確認されている。
[小田部雄次]
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南 次郎
ミナミ ジロウ
- 肩書
- 陸相,枢密顧問官
- 生年月日
- 明治7年8月10日
- 出生地
- 大分県
- 学歴
- 陸士〔明治28年〕卒 陸大〔明治36年〕卒
- 経歴
- 明治36年騎兵第1連隊中隊長となり、37年日露戦争に従軍、同年12月大本営参謀、38年陸大教官、39年関東総督府陸軍参謀。大正3年騎兵第1連隊長、6年軍務局騎兵課長、8年支那駐屯軍司令官、12年陸士校長、15年第16師団長。昭和2年参謀次長、4年朝鮮軍司令官となり第1次山東出兵では全面侵略を主張。5年大将、6年第2次若槻礼次郎内閣の陸相となり、同年9月満州事変勃発、政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍の強硬策に引きずられた。若槻内閣倒壊で軍事参議官、9年関東軍司令官、11〜17年朝鮮総督、17年枢密顧問官、20年大日本政治会総裁、貴族院議員。戦後、A級戦犯として極東軍事裁判にかけられ「知らぬ」「記憶にない」と繰り返し、23年終身禁錮の判決を受けたが、29年病気で仮出獄、30年病没した。
- 没年月日
- 昭和30年12月5日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
南 次郎
ミナミ ジロウ
大正・昭和期の陸軍大将 陸相;枢密顧問官。
- 生年
- 明治7年8月10日(1874年)
- 没年
- 昭和30(1955)年12月5日
- 出生地
- 大分県
- 学歴〔年〕
- 陸士〔明治28年〕卒,陸大〔明治36年〕卒
- 経歴
- 明治36年騎兵第1連隊中隊長となり、37年日露戦争に従軍、同年12月大本営参謀、38年陸大教官、39年関東総督府陸軍参謀。大正3年騎兵第1連隊長、6年軍務局騎兵課長、8年支那駐屯軍司令官、12年陸士校長、15年第16師団長。昭和2年参謀次長、4年朝鮮軍司令官となり第1次山東出兵では全面侵略を主張。5年大将、6年第2次若槻礼次郎内閣の陸相となり、同年9月満州事変勃発、政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍の強硬策に引きずられた。若槻内閣倒壊で軍事参議官、9年関東軍司令官、11〜17年朝鮮総督、17年枢密顧問官、20年大日本政治会総裁、貴族院議員。戦後、A級戦犯として極東軍事裁判にかけられ「知らぬ」「記憶にない」と繰り返し、23年終身禁錮の判決を受けたが、29年病気で仮出獄、30年病没した。
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南次郎 (みなみじろう)
生没年:1874-1955(明治7-昭和30)
明治・大正・昭和期の軍人。大分県出身。1895年陸軍士官学校第6期,1903年陸軍大学校第17期卒業。第16師団長,参謀次長,朝鮮軍司令官などをへて30年大将に昇進し,31年第2次若槻礼次郎内閣の陸相として満州事変を推進した。さらに軍事参議官,関東軍司令官を歴任,36年の二・二六事件後予備役に編入されたが,同年朝鮮総督,42年枢密顧問官,45年大日本政治会総裁兼貴族院議員となった。第2次世界大戦後A級戦犯として東京裁判にかけられ,終身禁錮の判決を受けた。
執筆者:木坂 順一郎
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南次郎
みなみじろう
[生]1874.8.10. 大分
[没]1955.12.5. 鎌倉
陸軍軍人。 1895年陸軍士官学校,1903年陸軍大学校卒業。翌年日露戦争に騎兵中隊長として従軍。陸軍大学校教官,19年中国派遣軍司令官などを歴任後,27年参謀次長,30年大将。 31年4月第2次若槻礼次郎内閣の陸相,対満州政策で強硬論を主張した。同年9月に満州事変が勃発,12月内閣交代とともに辞職。 34年関東軍司令官となり日本の大陸政策の推進役をつとめたが,二・二六事件で辞任,予備役に編入された。 36~42年朝鮮総督。東京裁判で戦犯として終身禁錮刑に処せられた。病気のために仮出獄後,死去。
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南次郎 みなみ-じろう
1874-1955 明治-昭和時代前期の軍人。
明治7年8月10日生まれ。参謀次長,朝鮮軍司令官をつとめ,昭和5年陸軍大将。6年陸相となり,満州事変では現地軍の拡大方針に追随した。9年関東軍司令官,11年朝鮮総督。のち枢密顧問官,貴族院議員。戦後A級戦犯として終身禁固刑をうけ,29年仮出所。昭和30年12月5日死去。81歳。大分県出身。陸軍大学校卒。
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南 次郎 (みなみ じろう)
生年月日:1874年8月10日
大正時代;昭和時代の軍人。大将;貴族院議員
1955年没
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世界大百科事典(旧版)内の南次郎の言及
【内鮮融和運動】より
…とくに1919年の[三・一独立運動]後に“同化”を目標に展開されたが,内鮮融和は満州事変を契機に[宇垣一成]総督下(1931年9月‐36年8月)に提唱された。その後,日中戦争の拡大下で,朝鮮人を動員するため南次郎朝鮮総督は内鮮一体をスローガンとして掲げ,[皇民化政策]が強化され,その典型が40年の[創氏改名]であった。 こうした朝鮮における施策を背景に,日本国内でも在日朝鮮人の急激な増加に対応し,各種の内鮮融和運動が展開された。…
※「南次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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