原街道(読み)はらかいどう

日本歴史地名大系 「原街道」の解説

原街道
はらかいどう

下野国北東部と奥州とを結ぶ三本の経路のうち最も北西側の道で、原方はらかた道ともよばれた。那須山麓起伏の多い扇状地の雑木林を横切って開かれ、奥州街道氏家うじいえ宿から北に分れ、矢板、黒磯、高久たかく(現那須郡那須町)を経て陸奥白河宿へ至る。現在の国道四号の原形にあたる。寛永二〇年(一六四三)保科正之は会津に入封し、以後日光や江戸への近道である会津西街道を重要視したが、この道は急峻な山道難儀をきわめた。そのため、江戸への廻米輸送の舟運利用として最も便利な鬼怒川の氏家宿・阿久津あくつ河岸(現塩谷郡氏家町)まで、奥州街道に並行した当街道を、白河藩主榊原氏の協力を得て、正保三年(一六四六)開通させた。工事は北から進められ、高久までは村落もなく、山麓の起伏を横断するように原野を開き、それ以南は点在する集落を結んで南西に道を延ばした。まず白河―高久間は幕府道中奉行伊丹順斎の監督で、続いて高久―氏家間は同じく菅長門守の監督で開通するが、できあがった道は道中奉行の管轄には入らなかった。宿は北の国境の黒川くろかわ(現福島県西白河郡西郷村)から、夕狩ゆうがり迯室にがしむろ小島こじま・高久(現那須町)東小屋ひがしこや(現黒磯市)槻沢つきぬきざわ(現那須郡西那須野町)平沢ひらさわ(現大田原市)鷲宿わしじゆく(現塩谷郡喜連川町)の九宿で、問屋も任命され、伝馬もおかれ、会津・白河・二本松各藩などの廻米輸送や、ときには参勤交代にも利用され、米街道ともよばれた。最大の難所は高久宿の南の那珂川本流の深い谷で、河床に下り立つ所に仮橋を架けたが、増水のたびに流失した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の原街道の言及

【奥州道中】より

…江戸後期から北方問題が起こると公用通行が増加し,そのため宿と助郷との間に争論が起こった。また東方の関街道(芦野,黒羽,烏山,板戸河岸)や西方の原街道(白河,黒川,高久,平沢,阿久津河岸)との間では,商品荷物の輸送で,たびたび争いを起こしている。【波田野 富信】。…

※「原街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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