デジタル大辞泉
「水谷八重子」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
みずたに‐やえこ【水谷八重子】
- 女優。東京出身。義兄水谷竹紫の薫陶をうけ、新劇の舞台も踏んだが、昭和三年(一九二八)女形しかいなかった新派に加入して女優として成功し、「滝の白糸」「大尉の娘」などで芸風を確立した。明治三八~昭和五四年(一九〇五‐七九)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
水谷 八重子(初代)
ミズタニ ヤエコ
- 職業
- 女優
- 肩書
- 日本芸術院会員〔昭和42年〕
- 本名
- 松野 八重子(マツノ ヤエコ)
- 生年月日
- 明治38年 8月1日
- 出生地
- 東京市 牛込区神楽坂(東京都 新宿区)
- 学歴
- 双葉高女〔大正11年〕卒
- 経歴
- 義兄で作家・劇評家の水谷竹紫が島村抱月の芸術座の理事だったため、大正2年芸術座創立公演に子役で初舞台。5年より水谷八重子の芸名を名乗る。8年芸術座解散後は義兄のもとで修業。9年民衆座の「青い鳥」のチルチルで夏川静枝と共演し、好評を得る。12年井上正夫一座に加入、「大尉の娘」で評判となり、翌13年第二次芸術座旗揚げ、「人形の家」のノラ、「復活」のカチューシア役などで人気女優となる。昭和3年松竹入り、本郷座で「何が彼女をそうさせたか」に出演。以後、芸術座の単独公演と新派公演を兼ねる。4年花柳章太郎と初共演して新派との縁が深まり、花柳とのコンビで長く人気を博した。12年守田勘弥と結婚したが、26年離婚。27年花柳章太郎らと劇団新派を結成、40年花柳没後は、新派の大黒柱として、また日本演劇界の代表的女優として君臨。「金色夜叉」のお宮、「不如婦」の浪子、「婦系図」のお蔦、「残菊物語」のお徳、「鶴八鶴次郎」の鶴八など、彼女によって新派古典の名狂言となったといわれる。49年には舞台生活60周年を記念して、「八重子十種」の狂言を選定した公演を開く。数々の受賞に輝き、46年には文化功労者となる。他の代表作に「滝の白糸」「十三夜」「風流深川唄」「皇女和の宮」「明治の雪」「花の生涯」「鹿鳴館」「吉田屋お登勢」などがある。映画は「寒椿」(覆面令嬢名で)、「浪子」「上陸第一歩」「大尉の娘」「歌女おぼえ書」「小太刀を使う女」「嵐の中の母」「おえんさん」などに出演。自伝に「女優一代」がある。大輪の牡丹にたとえられ、最後までみずみずしさを失わなかった。平成7年娘・良重が2代目水谷八重子を襲名。
- 受賞
- 日本芸術院賞〔昭和31年〕,文化功労者〔昭和46年〕 紫綬褒章〔昭和33年〕,勲三等宝冠章〔昭和50年〕 NHK放送文化賞(第4回)〔昭和28年〕,毎日演劇賞(劇団賞)〔昭和29年〕,菊池寛賞(第2回)〔昭和32年〕,朝日文化賞(昭47年度)〔昭和48年〕
- 没年月日
- 昭和54年 10月1日 (1979年)
- 家族
- 娘=水谷 八重子(2代目・女優),元夫=守田 勘弥(14代目)
- 親族
- 義兄=水谷 竹紫(第二芸術座主幹)
- 伝記
- 水谷八重子―女優一代往復書簡 拝啓水谷八重子様ある八重子物語あしあと―人生半分史みごとな幕切れ 水谷 八重子 著井上 ひさし,水谷 良重 著井上 ひさし 著水谷 良重 著戸板 康二 著(発行元 日本図書センター集英社集英社読売新聞社三月書房 ’97’95’92’91’90発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
水谷八重子
みずたにやえこ
(1905―1979)
女優。本名松野八重子。明治38年8月1日東京生まれ。義兄の水谷竹紫(ちくし)に養育され、1913年(大正2)8歳のとき、竹紫が経営していた芸術座の『内部』で初舞台を踏む。1916年芸名を水谷八重子とし、20年の民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を結成する。この間雙葉(ふたば)高等女学校に学んだが、校則に触れるため、1921年の国活映画『寒椿(かんつばき)』には覆面令嬢の匿名で出演した。同年研究座に参加、23年には『寒椿』で共演した井上正夫に招かれ、『大尉の娘』の露子を演じ、このコンビの当り役となった。1924年第二次芸術座を結成して『人形の家』のノラなどを演じたが、まもなく経営困難となり、八重子は単独で新派劇に参加、28年(昭和3)松竹に入り、以後新派との合同や芸術座単独公演を続ける。1937年歌舞伎(かぶき)俳優の14世守田勘弥(かんや)と結婚し、一女をもうける。1945年(昭和20)芸術座解散。51年離婚。52年に劇団新派に加入。新派における花柳(はなやぎ)章太郎との美男美女コンビは観客を魅了したが、八重子は歌舞伎や新劇の俳優とも共演し、映画やミュージカルにも出演した。1965年に花柳が没したのちは、文字どおり新派の大黒柱となり、74年当り役のなかから「八重子十種」を選んだ。新派女方芸を吸収消化して継承する一方、創作劇にも的確な解釈を施して堅実な演技を示したが、なんといっても観客にとって最大の魅力は、年齢をすこしも感じさせない清純な美しさであった。1966年芸術院会員、71年文化功労者、昭和54年10月1日死去。ひとり娘の水谷良重(よしえ)(1939― )も新派の女優として活躍、95年(平成7)には2代目水谷八重子を襲名した。
[水落 潔]
『野口達二編『水谷八重子』(1979・立風書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
水谷 八重子(1代目)
ミズタニ ヤエコ
大正・昭和期の女優
- 生年
- 明治38(1905)年8月1日
- 没年
- 昭和54(1979)年10月1日
- 出生地
- 東京市牛込区神楽坂(現・東京都新宿区)
- 本名
- 松野 八重子
- 学歴〔年〕
- 双葉高女〔大正11年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- NHK放送文化賞(第4回)〔昭和28年〕,毎日演劇賞(劇団賞)〔昭和29年〕,日本芸術院賞〔昭和31年〕,菊池寛賞(第2回)〔昭和32年〕,紫綬褒章〔昭和33年〕,文化功労者〔昭和46年〕,朝日文化賞(昭47年度)〔昭和48年〕,勲三等宝冠章〔昭和50年〕
- 経歴
- 大正2年島村抱月の芸術座創立公演に子役で初舞台。5年より水谷八重子の芸名を名乗る。8年芸術座解散後は義兄水谷竹紫のもとで修業。12年井上正夫一座に加入、「大尉の娘」で評判となり、翌13年第二次芸術座旗揚げ、「人形の家」のノラ、「復活」のカチューシア役などで人気女優となる。昭和3年松竹入り、新派の舞台に立つ。「不如婦」の浪子、「婦系図」のお蔦、「残菊物語」のお徳、「鶴八鶴次郎」の鶴八など、彼女によって新派古典の名狂言となったといわれる。12年守田勘弥と結婚したが、26年離婚。27年花柳章太郎らと劇団新派を結成、40年花柳没後は、新派の大黒柱として、また日本演劇界の代表的女優として君臨。49年には舞台生活60周年を記念して、「八重子十種」の狂言を選定した公演を開く。数々の受賞に輝き、46年には文化功労者となる。他の代表作に「滝の白糸」「十三夜」「風流深川唄」「花の生涯」「鹿鳴館」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
水谷八重子 (みずたにやえこ)
生没年:1905-79(明治38-昭和54)
新派女優。本名松野八重子。東京に生まれた。10代の初めから島村抱月・松井須磨子の芸術座に子役で出演,また民衆座の《青い鳥》のチルチルを演じたあと,友田恭助とわかもの座の試演などを行い,映画にも〈覆面令嬢〉なる匿名で出演した。1924年義兄の水谷竹紫(ちくし)が作った第2次芸術座の女優として正式に劇界に入ったが,迎えられて新派に参加,可憐な娘役の演技で,先輩の女形たちと共演した。第2次大戦後に名女形が没していったのちは,創作劇のほかに女形ののこした明治以来の新派演目の女主人公の芸をも継承して,74年には《大尉の娘》の露子,《皇女和の宮》その他の〈八重子十種〉を自選している。大戦後の一時期には,新劇の演出家菅原卓(たかし)の指導で意欲的な企画をえらび,新派と新劇の中間を考えた近代劇の演目によっても注目された。戦後の新派をともに支えた花柳章太郎没後は,舞台の上の相手役に若い俳優を起用,死ぬまで若さと美しさを失わなかった。66年日本芸術院会員,71年文化功労者に推されている。
執筆者:戸板 康二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
水谷八重子
みずたにやえこ
[生]1905.8.1. 東京
[没]1979.10.1. 東京
女優。時計商の娘に生れ,1913年9月,義兄水谷竹紫の縁で,芸術座創立公演『内部』に群衆の子役として初舞台。 20年2月双葉高等女学校在学中に民衆座『青い鳥』のチルチルを演じ,清新な演技で好評,新派の井上正夫に認められ,のち日活映画『寒椿』などで共演する機縁となった。同年 12月友田恭助の師走会 (わかもの座) に参加。 24年2月竹紫のバックアップで第2次芸術座を再興。 28年 10月松竹と契約,芸術座を率いて正式に新派に参加。第2次世界大戦中は移動演劇に従事,戦後は新派大合同の機運に促されて,49年劇団新派に結集,花柳章太郎の相手役として活躍する一方,『蝶々夫人』『息子の青春』などで新境地を開く意欲をみせた。花柳の没 (1965) 後は,一座の座頭の重責にあった。容姿に恵まれ『大尉の娘』の露,『金色夜叉』の宮,『鶴八鶴次郎』の鶴八,『皇女和の宮』など当り役は多い。 56年日本芸術院賞受賞,58年紫綬褒章受章,71年文化功労者。日本芸術院会員。ひとり娘の良重も女優で,95年2世水谷八重子を襲名した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
水谷八重子【みずたにやえこ】
女優。本名松野八重子。東京生れ。双葉高女卒業。1913年芸術座の創立時に初舞台をふみ,1920年に民衆座の《青い鳥》のチルチル役で井上正夫に認められ映画に出演。のち,第2次芸術座を興して主演女優となり活躍。さらに新派に加入,花柳章太郎とともに舞台を支え,すぐれた容姿と名演技で舞台女優の第一人者となった。
→関連項目友田恭助
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
水谷八重子(初代) みずたに-やえこ
1905-1979 大正-昭和時代の女優。
明治38年8月1日生まれ。大正2年芸術座からデビュー。戦前は第2次芸術座を主宰し,戦後は花柳章太郎とともに新派をひきいた。映画でも活躍。14代守田勘弥(かんや)と結婚したが離婚,1女に水谷良重(2代八重子)。昭和42年芸術院会員,46年文化功労者。昭和54年10月1日死去。74歳。東京出身。双葉高女卒。本名は松野八重子。
水谷八重子(2代) みずたに-やえこ
1939- 昭和後期-平成時代の女優。
昭和14年4月16日生まれ。14代守田勘弥と初代水谷八重子の長女。昭和30年ジャズ歌手としてデビュー,同年水谷良重の名で新派の初舞台。映画やミュージカル,テレビに出演。40年ごろからは新派の舞台に専心,平成4年芸術選奨。平成7年2代を襲名した。東京出身。本名は松野好重。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
水谷 八重子 (みずたに やえこ)
生年月日:1905年8月1日
大正時代;昭和時代の女優
1979年没
水谷 八重子(2代目) (みずたに やえこ)
生年月日:1939年4月16日
昭和時代;平成時代の女優
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の水谷八重子の言及
【芸術座】より
…この劇団から新国劇の沢田正二郎が出ている。(2)第2次は,1924年(大正13),第1次の芸術座の舞台に子役で出ていた[水谷八重子]の義兄水谷竹紫(ちくし)が,妹の劇団名として継承,八重子が新派に加入する以前に,おもに東宝系の劇場に,この名称で出演していた。【戸板 康二】。…
【新派】より
…16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い[花柳(はなやぎ)章太郎]が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した[水谷八重子]を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。 低調だった〈新派〉が活気を得たのは,31年11月明治座上演の瀬戸英一《二筋道》であった。…
※「水谷八重子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」