改訂新版 世界大百科事典 「反戦平和運動」の意味・わかりやすい解説
反戦・平和運動 (はんせんへいわうんどう)
反戦・平和運動とは,戦争そのもの,あるいは戦争が引き起こされそうな事態そのものに反対する大衆的な運動のことをいう。別な言い方をするならば,戦争と戦争につながる一切のものを拒否する大衆的な運動を総称するといえよう。
こうした反戦・平和運動の精神的あるいは思想的背景をなすものには,(1)隣人愛を説く宗教的立場,(2)人間尊重の人道主義(ヒューマニズム)の立場,(3)人間解放をめざす社会主義の立場,の三つがある。それだけに,この運動には,〈戦争反対・平和実現〉の一点のために,さまざまな人々が宗教,思想,信条,政治党派の違いを超えて広く合流してきたという歴史的経緯があり,いわば,人間がつくり出すさまざまな大衆運動のなかで最も幅の広い運動といえる。
19世紀後半から第1次世界大戦まで
人類の歴史が始まって以来,いつの時代にも戦争をいとい,平和を希求する人々はいた。しかし,反戦・平和運動が大衆的に起こってきたのは19世紀後半からである。なぜなら,1870-80年代から世界が帝国主義の段階に入り,帝国主義列強が自国産業のための市場と原料供給地を求めて植民地の獲得にのりだし,その結果,世界各地で衝突が起こり,いわゆる帝国主義戦争が繰り広げられたからである。その代表的なものには,米西戦争(1898),ボーア戦争(1899),日露戦争(1904-05),第1次バルカン戦争(1912),第2次バルカン戦争(1913)などがある。帝国主義段階の戦争では,それ以前の戦争に比べて人命の損傷が飛躍的に増大した。戦争の規模がそれ以前の戦争と比べて大幅に拡大し,兵器も改良されてその性能を増したためである。しかも,こうした戦争で犠牲となるのは,労働者や農民などの大衆だった。そこから,この段階になって初めて大衆的な反戦・平和運動が発生するにいたったわけである。
この時代の最も代表的な反戦・平和運動は,1889年にパリで創立された労働者階級を基盤とする国際的大衆組織,第二インターナショナルによる活動であった。1904年にアムステルダムで開かれた第6回大会では,日露戦争の問題が取り上げられ,席上,ともに副議長に選ばれたロシア社会民主党代表のプレハーノフと日本代表の片山潜が壇上で握手,交戦国の勤労者代表同士による非戦の誓いとして注目された。その後,ヨーロッパで各国間の対立が激化し,戦争勃発の機運が増すとインターナショナルは07年にシュトゥットガルトで第7回大会を,10年にはコペンハーゲンで第8回大会を,12年にはスイスのバーゼルで臨時大会を開き,それぞれ戦争反対の決議を採択した。しかし,こうした労働者階級の国際連帯による反戦への誓いも,14年に第1次世界大戦が勃発すると,あえなく崩れた。参戦諸国の労働者政党のほとんどが,この戦争を防衛的な戦争であるとして支持,協力したからである。第二インターナショナルも事実上崩壊してしまった。世界諸国の労働者階級も,帝国主義戦争としては最大の第1次大戦の勃発を阻止しえなかったわけである。
この時代の日本の反戦・平和運動としては,日清戦争(1894-95),日露戦争に対するものがある。日清戦争にあたっては,ごく一部のキリスト教徒らが戦争反対を唱えたにすぎなかったが,日露戦争では,キリスト教徒の内村鑑三,社会主義者の幸徳秋水,堺利彦らが非戦の論陣を張り,木下尚江,与謝野晶子,田山花袋ら文学者の非戦または反戦の立場にたった作品が,多くの国民に共感をもって迎えられた(非戦論)。しかし,この時代の日本は,政府による厳しい弾圧もあって,大衆的な反戦・平和運動は盛り上がらなかった。
第1次世界大戦後から第2次世界大戦まで
1920年代中ごろから続いていた世界政治の相対的安定は,1929年から始まった世界恐慌の深化によって失われた。とりわけ,ヨーロッパではドイツを中心に急速に不安定化した。すなわち,ベルサイユ体制の下で苦しんでいたドイツ資本主義は世界恐慌下で危機的な様相を呈するにいたった。こうした状況のなかで,33年にはナチスが政治権力を握ってファシズムの政治を行い,再軍備を進めた。さらにイタリアにもファシズムの政治が出現,ヨーロッパはまたまた侵略戦争勃発の危機に見舞われた。アジアでは,日本がドイツ,イタリアと防共協定(日独防共協定,1936,日独伊防共協定,1937)を結び,37年には日中戦争を起こすなど,中国への侵略を開始した。
このため,知識人や左翼勢力による反戦・平和運動が広がり,1929年3月には,フランスの作家のアンリ・バルビュス,ロマン・ロランの提唱で反ファシズム国際大会がベルリンで開かれた。さらに32年8月には,ソ連が主導する労働者階級の国際組織,第三インターナショナル(コミンテルン)の呼びかけでアムステルダムで世界反戦大会が開かれた。これには29ヵ国から代表が参加した。また,コミンテルンの第7回大会(1935)は〈反ファッショ統一戦線戦術〉を決定,世界の労働者階級が一致してファシズムと戦争に反対して立ち上がるよう呼びかけた。日本でも,中国への侵略戦争に反対する運動が組織された。1927年には,対支非干渉同盟の全国組織が労農党,日本労働組合評議会,日本農民組合,無産者青年同盟などによって結成された。また,アンリ・バルビュスらの呼びかけにこたえて,日本反帝同盟が29年に創立された。その構成団体は,政治的自由獲得労農同盟,全国農民組合,全国労働組合協議会,全日本無産者芸術連盟(ナップ),朝鮮労働総同盟,台湾農民組合などだった。33年には,中国の上海で国際反帝同盟の計画による〈上海反戦会議〉が開かれたが,これを支持する運動も組織された。日本反帝同盟の活動や,上海反戦会議支持運動など一連の反戦運動では,1922年に非合法下で創立された日本共産党が指導的役割を果たした。だが,政府による共産主義者,社会主義者,ひいては自由主義者らへの弾圧は過酷をきわめ,この時期の反戦・平和運動は日本国民全体の運動には発展しなかった。
やがて,ヨーロッパでは1939年9月に第2次世界大戦が突発,日本も41年12月にイギリス,アメリカに宣戦して太平洋戦争に突入する。ヨーロッパでも,日本でも,反戦・平和運動はまたしても戦争の勃発を阻止することができなかったのである。
→反ファシズム
第2次世界大戦後
反戦・平和運動は第2次大戦後,飛躍的な発展を遂げる。大戦末期にアメリカで開発された原子爆弾が広島,長崎に投下され,両都市で数十万にのぼる非戦闘員の一般市民が死傷したことに象徴されるように,核兵器の出現が,戦争というものの性格を文字どおり一変させてしまったからである。アメリカばかりでなく,やがてイギリス,ソ連,フランス,中国も核兵器を保有するようになり,ひとたび大規模な核戦争が起これば人類の絶滅さえ予想されるにいたった。それだけに,第2次大戦後の反戦・平和運動は,単に目先の戦争をやめさせたり,戦争の発生を防止するといった単純な目的をもった運動にとどまらず,地球と人類を破滅から救うという,かつてない切実で緊急な課題を担うことになったのである。
戦後まもなく米ソ間で冷戦が始まり,1950年6月には朝鮮戦争が起こった。こうした東西対立が激化するなかで1949年4月には,パリとプラハで第1回平和擁護世界大会が開かれた。72ヵ国の平和団体代表が参加し,原子兵器禁止,軍拡と軍事ブロック反対,日・独の再軍備反対などを打ち出した。さらに大会後設けられた平和擁護世界大会委員会は50年3月,原爆反対の署名を全世界に訴えるストックホルム・アピールを発表,短時日の間に世界で5億人の署名を集めた。日本でも,朝鮮戦争反対の運動と結んで取り組まれ,645万の署名が集まった。平和擁護世界大会委員会の後身,世界平和評議会は51年2月,ベルリンで米英仏ソ中の五大国に平和協定締結を要求する署名運動(ベルリン・アピール)を呼びかけ,全世界で6億人以上,日本でも600万人の人々によって支持された。
1954年3月,日本のマグロ漁船第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験による〈死の灰〉を浴び,乗組員が放射能症にかかり,1人が死亡した(ビキニ水爆実験)。この事件がきっかけとなって日本国中で原水爆禁止署名が起こり,またたくまに3200万を超した。こうした盛上りを背景に55年8月には広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ,以後毎年,世界各国の平和団体代表を集めて日本で世界大会が催されるようになった(原水爆禁止運動)。このことにより,最初の被爆国である日本は平和運動の面でも世界的な中心の一つとなった。核軍縮を求める声が世界に広がるにつれて,国連もこれに取り組まざるをえなくなり,78年には第1回軍縮特別総会を,82年には第2回軍縮特別総会を開いた。世界の平和団体はこれに圧力をかけるための運動を展開,とくに第2回総会にあたっては,全世界で国連に核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名に取り組み,約1億人の署名を達成した。このうち約8000万人分が日本で集められたものである。さらに世界の平和団体は第2回総会開会中の6月12日,ニューヨークで国際的な反核デモを組織し,約1000万人がデモを繰り広げた。一方,83年末から西欧5ヵ国への配備が始まったアメリカ製新型中距離核ミサイルに反対して,西欧各国に反核平和運動が盛り上がり,1981年秋には約300万人,83年秋には約500万人が加わる反核集会・デモが西欧各地で行われた。
このほか,第2次大戦後の主要な反戦・平和運動としては,世界的には,1960年代から70年代にかけて各国で行われたベトナム反戦運動,日本では,60年を中心とする日米安保条約改定阻止闘争(〈日米安全保障条約〉の項参照)などがあげられる。
→軍縮 →平和
執筆者:岩垂 弘
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