古井村(読み)こいむら

日本歴史地名大系 「古井村」の解説

古井村
こいむら

[現在地名]千種区千種・北千種きたちくさ今池いまいけ松軒しようけん豊年ほうねん町・神田かんだ町・若水わかみず吹上ふきあげ大久手おおくて町・春岡はるおか通・内山うちやま振甫しんぽ町・池下いけした・千種町・青柳あおやぎ町・小松こまつ町・高見たかみ・千種通・仲田なかた、東区豊前とよまえ町・池内本いけうちほん町・石神本いしがみほん

名古屋城下東部に接する。村の南部を飯田いいだ街道が貫通して城下奥田町に通ずる。東北部に塩付しおつけ街道が通っている。村内北部には名古屋新田が散在する。高牟たかむ神社の寛正二年(一四六一)の棟札に「尾州愛知郡小井村八幡宮」とあり、以後天文元年(一五三二)・永禄八年(一五六五)の棟札にも「小井村」と記されている(名古屋市史)

弘化三年(一八四六)の村絵図(徳川林政史蔵)によれば、村の中央に寺百姓を中心とする集落があり、村内は藩士一二人の給知。

古井村
こいむら

[現在地名]安芸市古井

大井おおい村の北、伊尾木いおき上流に位置し、川沿いに障子藪しようじやぶ裏政うらまさ大久保おおくぼ伊田淵いだぶちなかうち杖谷つえだに明夜あきようなど一二の集落が点在する。北はしま村に接し、川沿いに別役べつちやく村を経て阿波国に至る道が通る。

隣村の別役・大井などが延慶元年(一三〇八)二月付の城普請定書(安芸文書)みようとして記されるのに対し、古井は記されず、安芸氏によってその後に開発された村ともいわれる。

古井村
こいむら

[現在地名]香北町古井

西嶺にしのみね村の北、物部ものべ川の支流河内かわのうち川中流西岸、標高四〇〇メートルほどの斜面にある小集落。河内川の上流にかわうち村がある。天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是古井名五百之名」とし、九筆四反五代の「御公領分 古井名」を記す。いずれも与三郎扣で、「下下山畠ヤシキ」が多い。名本屋敷でもわずか一〇代の広さしかない。

元禄地払帳では本田高七・一四石ですべて蔵入地。新田高は川ノ内村分を含め二三・二四七石で、うち五石余が前田十太夫領知、残りが貢物地。弘化四年(一八四七)の巡覧ニ付万指出写(柳瀬家文書)では新田高一八石余、切畑二二石余。

古井村
ふるいむら

[現在地名]安城市古井町

北は安城村、東は川島かわしま村、南は桜井さくらい村に接する。「和名抄」に記す碧海あおみ郡桜井郷に属し、志貴しき庄に含まれる。中世、松平氏の進出とともに、公方年貢が課せられた。土地の耕作者は、領主への公方年貢と名主職得分ともいえる年貢とを併せ納入しなくてはならなかった。安城・桜井という大村に挟まれた小村で、近世の支配は旗本本多対馬守領。寛永一三年(一六三六)の村高七一二石九斗二升、新田畑の開発は少ない。元禄一三年(一七〇〇)古井村の五人組条目は三六条よりなり、そのなかに、「百姓所持之田地、高拾石以下者勿論高持たりとも兄弟並ニ親類等え一切自今以後分呉申間敷候」と幕法より厳しい条項が注目される。

古井村
ふるいむら

[現在地名]印南町古井

切目きりめ川の中流左岸にある。南東樮川ほくそがわ村。西は山を越えて印南原いなんばら村。「続風土記」に「古き堰溝の義なるへし」とある。慶長検地高目録に「古居村」とみえ、村高三六五石余、小物成五・四〇六石。宝暦一〇年(一七六〇)の切目組大指出帳(「日高近世史料」所収)によれば田畑三〇町六反余で高三七八石余、家数四一で内訳は庄屋二・肝煎一・御役家一四・無役家二四、人数一八八、馬一、牛一二、井堰二。

古井村
こいむら

[現在地名]松阪市古井町

西野々にしのの村の東にある。近世は和歌山藩松坂領。元禄郷帳では一村をなすが、天保郷帳では大宮田おおみやた村に含まれる。「五鈴遺響」には宮田村(大宮田)の属邑と記されている。宮田について「旧名ハ宮田井領ト称ス、永正年中旧案アリ、コレ今ノ古井ノ旧名ニシテ旧ト宮田ニ隷セラル処ナルヘシ」とあるが、中世以前の古井を知る手がかりを欠く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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