古市場村(読み)ふるいちばむら

日本歴史地名大系 「古市場村」の解説

古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]甲西町古市場

鮎沢あゆざわ村の南に位置し、駿信往還が通る。地名は戦国期にばらざわに市が立てられる以前から市が立っていたことに由縁するといわれ、「甲斐国志」は身延ノ過去帳にみえる「西郡大市」がここにあたるとする。市は寛延―宝暦(一七四八―六四)頃の村明細帳(大久保政子家文書)に「当村之儀、先規者市場ニ而毎月一六ニ相定、不依之何故売買仕候共八十四年以前断絶仕、市相立不申候」とあり、一・六の日の六斎市であったが、寛文―延宝(一六六一―八一)頃には廃絶していた。沢が駿信往還の宿として発達したためであろう。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「古市場妙源寺」がみえる。なお「甲斐国志」に「古文書ニ拠ルニ本村モト北大師村ト云、今枝村ノ名ニ存セリ」とある。

慶長六年(一六〇一)の古市場郷検地帳(県立図書館蔵)によると麦田四町六反余・上田三町七反余・中田一町一反余・下田一町八反余・下々田一町三反余、上畑一町八反余・中畑八反余・下畑六反余・下々畑三反余、田畑計一六町三反余、屋敷数は三〇、計二千二九〇坪、ほかに除地七六二坪(妙源寺屋敷二八八坪・神主屋敷七四坪・不動寺屋敷四〇〇坪)、弾正荒二町五反余・熊蔵荒一町四反余。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]緑区古市場町・大膳野町だいぜんのちよう

現緑区の西端にあり、北は南生実みなみおゆみ(現中央区)。南西を村田むらた(境川)が流れる。西の上総国古市場村(現市原市)と区別するため下古市場とも称する。椎名下しいなしも郷のうちで、史料上は下郷と一括される場合が多いが、当村はのち単独でみえるようになる。元和八年(一六二二)当時は幕府領であったとされる。寛永四年(一六二七)から生実藩領で、同五年の小弓領郷帳に村名がみえ、田四五一石余・畑七七石余、ほか新田一四石余。幕末まで同藩領。天保一三年(一八四二)の家数四五のうち本百姓二五、馬九。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]各務原市蘇原古市場町そはらふるいちばちよう蘇原北山町そはらきたやまちよう蘇原昭栄町そはらしようえいちよう蘇原和合町そはらわごうちよう蘇原外山町そはらとやまちよう蘇原清住町そはらきよずみちよう蘇原赤羽根町そはらあかばねちよう蘇原宮塚町そはらみやづかちようなど

笠見かさみ(加佐美山)の南に位置する。西流してきたさかい川は当村の東部から北流、北部で再び西流し、笠見山の北を流れる。各務かかみ郡に属し、西は島崎しまざき村・伊吹いぶき村。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野口村野帳(安積文書)に「古市ハ」「ふる一は」などと記される。慶長六年(一六〇一)の彦坂元正等連署知行目録(菅沼文書)に「七百石八斗七升古市村」とあり、慶長郷帳には古市場村とみえる。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]三隅町古市場

三隅川下流左岸に広がる平坦地で、三隅川を境に北は西河内さいごうち村・みなと浦、南・東は向野田むかいのた村、南・西は岡見おかみ村。北西部は日本海に面し、ふる湊の漁港がある。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高五八二石余、年貢高は田方二六一石余・畑方八六石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳でも高五八二石余で、代官屋敷針茂島はりもじま番所亥より引の記載がある。寛政元年(一七八九)の巡見使案内懐中記(福原家文書)では高六〇六石余、家数一三四・人高六三〇、古湊には猟船一〇艘があった。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]岐阜市古市場・古市場神田ふるいちばじんでん古市場老ふるいちばおいかみ古市場高田ふるいちばたかだ古市場中原ふるいちばなかはら古市場高宮ふるいちばたかみや古市場東町田ふるいちばひがしまちだ

黒野くろの村の北にあたり、南東へ長く延びて伊自良いじら川に達する。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高六八九石余。正保郷帳では田三五六石余・畑三三三石余・山年貢三斗。文禄四年(一五九五)から加藤貞泰(黒野藩)領であったが、慶長一五年(一六一〇)加納藩領となった。宝暦五年(一七五五)幕府領、同九年大垣藩預所となったが、同一三年幕府代官の管下となり幕末に至った(「岐阜県史」など)。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば反別田二五町七反余・畑三二町四反余、家数五八(うち高持百姓五一)・人数二四一。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]大田区矢口やぐち三丁目・下丸子しもまるこ二丁目・多摩川たまがわ二丁目、神奈川県川崎市さいわい区古市場・古市場一―二丁目・東古市場ひがしふるいちば

矢口村・今泉いまいずみ村の南、多摩川左岸沿いの低地に立地する。対岸は橘樹たちばな小向こむかい(現川崎市幸区)。なお多摩川の蛇行により右岸に上台耕地うわだいこうち中耕地なかこうち西洲耕地にしすこうち下河原耕地しもがわらこうちからなる当村の飛地(現川崎市幸区)が形成されていた。天正一八年(一五九〇)徳川家康は小向で多摩川を渡って江戸に入ったと伝える(天正日記)。田園簿に村名がみえ、田方二四石余・畑方五四石余、ほかに田四反余・畑二八町三反余の見取場があり、すべて幕府領。元禄郷帳では高三〇八石余。宝暦二年(一七五二)の反別は田三町三反余・畑五六町四反余(「新用水堀定」平川家文書)


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]菟田野町大字古市場

芳野ほうの川がつくる小盆地、伊勢本いせほん街道と伊勢南いせみなみ街道を結ぶ道筋に立地。宇太水分うだのみくまり神社鎮座地。馬場田ばばだ遺跡からは弥生式土器が出土。室町中期の沢氏古文書に「うたの市」、大永七年(一五二七)の若子様之水分御マツリニ付の樽引付(同文書)に「市場九郎左衛門」、永禄一一年(一五六八)の水分宮御神事引付(同文書)に「市場中之坊」「市場宮家」「市場禰宜御子」がみえ、小字三宅みやけが現存することから、中世に市が設けられていたと考えられる。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]甲府市大里町おおさとちよう

円満寺えんまんじ村の南にある。西は宮原みやばら村。村名はかつて市が開催されたことによると推測される(甲斐国志)。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)には古市場郷とみえ、田三町八反余・畑三町余、桑二四把、永荒地七畝余・屋敷六三四坪。慶長古高帳では一〇六石余。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高九三石余、反別は田三町五反余・畑二町二反余、屋敷四反余。享保九年(一七二四)から幕府領上飯田代官支配。詳細は不明だが天保三年(一八三二)に甲府代官支配から石和代官支配となり(甲州代官付)、慶応元年(一八六五)ないしは二年には市川代官支配となった(同二年「議定書」今橋寿子家文書など)


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]幸区古市場・古市場一―二丁目・東古市場ひがしふるいちば、東京都大田おおた矢口やぐち三丁目・下丸子しもまるこ二丁目

荏原えばら郡に属し、東は同郡はら村、西は同郡矢口村、北は同郡今泉いまいずみ(以上現東京都大田区)に接し、南は多摩川。田園簿に「古市場村」とある。近世を通し幕府直轄領。多摩川の蛇行により右岸に上台耕地うわだいこうち中耕地なかこうち西洲耕地にしすこうち下河原耕地しもがわらこうちからなる飛地が形成された。左岸の矢口村との間に新田義興が謀殺されたと伝える矢口渡がある。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]可児市下恵土しもえど

宮瀬みやぜ村の西にある。慶長郷帳などには(荏)上下と一括される。徳野藩領。岩瀬文庫本正保郷帳では下江渡しもえど村のうち。元禄郷帳に村名がみえる。承応二年(一六五三)以降幕府領。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば田八町七反余・畑九町余、新田高五石余、田一反余・畑四反余。家数二一・人数八四、馬三。立会いの用水堰二ヵ所、溜池一ヵ所、野林五ヵ所、御林一ヵ所(四町五反余)がある。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]川越市古市場

渋井しぶい村の北、新河岸川左岸低地に立地。西は新河岸川を隔てて川崎かわさき(現上福岡市)。村名は鎌倉時代奥州往還の人馬継立をしたことに由来するとの説がある(郡村誌)。検地は慶安元年(一六四八)以後数度実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一三五石余・畑七一石余、野銭永一〇〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四一一石余、反別田二八町余・畑六一町余、ほかに開発分高六三石余(反別田四町三反余・畑九町四反余)


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]市原市古市場

八幡やわた村の北東、村田むらた川右岸に位置し、下総国境にあたる。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。千葉郡の同名村と区別して上古市場かみふるいちば村ともみえるが、また高島たかしま村とも称したという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三四六石。正保国絵図でも同高で、幕末まで変わらない。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では上古市場村とあり、家数四九、旗本永井領。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]岐阜市春近古市場はるちかふるいちば春近古市場北はるちかふるいちばきた春近古市場南はるちかふるいちばみなみ

おち村の南に位置し、南東に中屋なかや村がある。慶長五年(一六〇〇)一〇月の富田伊豆守村高沙汰書(国立史料館蔵)に古市場一六四石余とあり、関ヶ原合戦後に幕府領であったことが知られる。慶長郷帳に村名がみえ、高一七二石余。


古市場村
ふるいちばむら

[現在地名]北本市古市場一―三丁目

山中やまなか村の東にあり、北は下谷しもや(現鴻巣市)。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。田園簿では田四六石余・畑九九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本日下部領。以後幕末まで同領。寛永六年(一六二九)検地が行われた(風土記稿)。中山道鴻巣宿の助郷村で勤高一五二石(嘉永四年「鴻巣宿助郷帳」中野家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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