日本統治下の台湾に、帝国大学令によって1928年(昭和3)3月に設けられた官立総合大学。1945年11月15日に中華民国に接収され、国立台湾大学となった。他の帝大と同等と位置づけられていたが、文部大臣の本来担うべき職務は、博士学位の認可を除いて台湾総督が行った。創立当初は文政学部、理農学部(最初13講座)および附属農林専門部と小規模だったが、接収時までに文政、理、農、医、工の5学部(計114講座)、熱帯医学研究所、南方人文研究所、南方資源科学研究所の3附属研究所、予科、附属医学専門部を擁する規模に拡大された。地域性を生かした研究に土俗学、人種学、南洋史学、熱帯圏農業、熱帯医学などがあった。医学部薬理学の杜聡明は唯一の台湾人教授として知られる。医学部以外は高等学校出身の学生は少数だった。医学部では入学生の過半数が台湾人の年もあり、1943年には助手も台湾人が4割を超えていた。接収後しばらくは台北帝大教授ほか多くの日本人が国立台湾大学の教員に任用され、台湾大学への移行を支えた。現国立台湾大学は台北帝大の歴史を継承している。
[所澤 潤]
『『Academia―台北帝国大学研究通訊』1・2号(1996年4月・1997年5月・台湾大学台湾研究社)』▽『台北帝国大学編・刊『台北帝国大学一覧』(昭和3~18年度まで各年度版)』
1928年3月,日本統治時代の台湾に7番目の帝国大学として創設された大学。創設当初は文政学部(4学科),理農学部(4学科)と付属農林専門部が置かれた。第1期の学生は59人だった。医学部が1936年,工学部が43年に新設され,45年時点で文政・理・農・医・工の5学部を擁するまでになった。また付属農林専門部が1943年に独立して台中高等農林学校となる一方,付属医学専門部,熱帯医学研究所,南方資源科学研究所,南方人文研究所が新設され,41年には予科が設置された。歴代の総長は幣原坦(在任1928~37年),三田定則(1937~41年),安藤正次(1941~45年),安藤一雄(1945年)の4人。1928年から45年までの卒業生は843人で,うち台湾籍の学生は219人だった。また1938年から43年の間に博士学位が32人に授与されているが,その中で台湾籍の者は5人となっている。1945年11月に中華民国によって接収され,国立台湾大学と改称されて現在に至る。
著者: 南部広孝
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
植民地時代の台湾に1928年に設置された帝国大学。その創設と拡充は,日本帝国主義の植民地・戦争政策と不可分に結びついていた。初め文政学部と理農学部からなり,35年医学部,41年工学部(実施は1943年)を増設。1939年以後,熱帯医学,南方人文,南方資源科学の諸研究所があいついで付置され,南方植民地の経営と資源開発のための研究機関の性格をいっそう強めた。1922年の新台湾教育令の同化政策にもとづき内台人共学制を実施したが,実際には日本人学生が大部分を占めた。45年日本の敗戦とともに廃校となったが,その施設は台湾大学にひきつがれた。
執筆者:田中 征男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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