台所町
だいどころまち
[現在地名]金沢市城南二丁目・菊川一丁目
川上新町の北東にあり、北東は石川郡笠舞村。御台所町ともいう。もとは笠舞村の耕地であった所を同心板前の組地とした(金沢古蹟志)。同心板前とは御台所付同心のことで元禄一二年(一六九九)にできた職、御台所奉行に属する足軽格であった(加能郷土辞彙)。同一四年六月御台所料理人七人、扶持の者五人に三〇俵を宛行い、それまで板前だった者は定番足軽とし、小人板前を名目板本と改め脇差を帯びさせた(「菅君雑録」加越能文庫)。
台所町
だいどころまち
[現在地名]静岡市伝馬町・相生町一丁目・横田町
鋳物師町から北に延びる小路の入口にある両側町。御台所町ともいう(以上、町方絵図)。元亀四年(一五七三)八月二七日の武田家朱印状(中村文書)は宛所を欠くが、旧規のように魚座役代官を命じている。これは当地の中村家に対してのもので、同家は寛文年間(一六六一―七三)まで当町にあったといい(「駿河志料」など)、往古は横田魚町と称した(駿河記)。
台所町
だいどころまち
[現在地名]秋田市千秋矢留町・同中島町の各一部
鷹匠町の東、北の丸新町の南に続く。「梅津政景日記」寛永八年(一六三一)八月六日条に、三の丸普請につき「八幡山下御中屋之者うしろ堀之事」がみえる。中屋は厨で台所を意味する。八幡山下の台所町は、この時までに中屋小人が割り付けられていたわけで、町名はそれに基づく。寛文(一六六一―七三)頃の御城下絵図(秋田県庁蔵)には「御中屋之者」、寛保二年(一七四二)の御城下絵図には「御厨」の町割が明示されている。
台所町
だいどころちよう
[現在地名]西区花の木一―二丁目
北は田町、東は江川端、南は巾下樽屋町、西は巾下白壁町に接する南北の町筋で、下級の武家屋敷が並んでいた。町名の起源は賄方役人の居住地であったことによる。大工頭の里村定蔵がおり、尾張一国の枡製造をつかさどった(尾張志、金鱗九十九之塵)。
台所町
だいどころまち
[現在地名]長岡市台町一―二丁目・福住一丁目
長岡城東の外堀と福島江用水との間にあった町で、殿町と四郎丸村昌福寺前を結ぶ幹線道が東西に走り、東外堀に並行して南北道もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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