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日清修好条規 にっしんしゅうこうじょうき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日清修好条規
にっしんしゅうこうじょうき

明治4 (1871) 年日本と清国間で結ばれた対等条約。日本側全権は伊達宗城,清国側は李鴻章。同時に通商章程,海関税則が調印された。この条約は日清相互に領事裁判権,協定関税を認め合ったもので,日本は他の欧米列強のように最恵国待遇や内地通商権を獲得しなかった。

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デジタル大辞泉の解説

にっしん‐しゅうこうじょうき〔‐シウカウデウキ〕【日清修好条規】

明治4年(1871)日本と清国とが自主的に締結した最初の条約。領事裁判権と協定関税率を相互に承認し、最恵国条款を欠くなど変則的な対等条約であった。

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百科事典マイペディアの解説

日清修好条規【にっしんしゅうこうじょうき】

日清間の最初の対等条約。1871年締結。伊達宗城全権大使柳原前光を補佐として交渉,初め欧米列強なみの特権を得ようと不平等条約を提示したが,清国代表李鴻章の拒絶で対等に改めた。
→関連項目台湾出兵天津条約琉球処分

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世界大百科事典 第2版の解説

にっしんしゅうこうじょうき【日清修好条規】

日本と中国清朝との間に締結された最初の修好通商条約。1871年9月13日(明治4年7月29日)日本側全権大蔵卿伊達宗城と清国側全権直隷総督李鴻章との間に調印,73年3月9日批准,94年8月1日,日清開戦により失効した。明治政府は係争中の対朝鮮修交問題を有利に解決するため,朝鮮の宗主国である清国と対等条約を締結することを希望した。しかし日清間には16世紀末以来正式国交がなかったので,1870年7月27日(明治3年6月29日)予備交渉のため外務権大丞柳原前光,同権少丞花房義質に国交と通商の下交渉ならびに貿易状況の調査を目的に清国差遣を命じた。

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大辞林 第三版の解説

にっしんしゅうこうじょうき【日清修好条規】

1871年(明治4)日本と清国との間で初めて締結された条約。相互に領事裁判権と協定関税率を認め、最恵国待遇はないなど、変則的な平等条約。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日清修好条規
にっしんしゅうこうじょうき

1871年(明治4)7月29日、日本側伊達宗城(だてむねなり)、清国側李鴻章(りこうしょう)を全権として調印された、日中両国が自主的に締結した最初の修好通商条約。日本は70年、朝鮮との国交問題を有利に解決するため、外務大丞柳原前光(だいじょうやなぎわらさきみつ)を対等条約締結の予備交渉に派遣、李鴻章から条約締結の応諾を得た。翌年日本は清独天津(てんしん)条約を模した不平等な草案を提示したが、清国は最恵国条款と清国内地の通商権規定を削り、領土保全と侵略に対する相互援助規定を付け加えた。その結果、領事裁判権と両国が列強に強制された協定関税率とを相互に認め合う変則的対等条約となった。そのため列強中には反西欧連合を密約したと疑う国もあり、政府内にも列強と同様の特権獲得に失敗したとの批判があって、批准書交換は73年に持ち越された。その後も日本は列強と同一の条約に改訂することを求めて清国と交渉を続けたが、不成功のまま日清戦争で消滅した。[藤村道生]
『信夫清三郎編『日本外交史』(1974・毎日新聞社)』

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