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谷干城 たに たてき

百科事典マイペディアの解説

谷干城【たにたてき】

政治家,軍人。号は隈山。土佐(とさ)高知藩出身。1871年兵部権大丞を振出しに軍人となり,1873年から熊本鎮台司令長官,この間,台湾出兵時には参軍として従軍,また佐賀の乱西南戦争に活躍。
→関連項目陸羯南鳥尾小弥太

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

谷干城 たに-たてき

1837-1911 明治時代の軍人,政治家。
天保(てんぽう)8年2月12日生まれ。もと土佐高知藩士。維新後陸軍にはいり,熊本鎮台司令長官。西南戦争の際,熊本城を西郷軍の攻撃からまもりぬく。明治11年陸軍中将。第1次伊藤内閣の農商務相となるが井上外相の条約改正案に反対して辞任。学習院院長。貴族院議員。明治44年5月13日死去。75歳。通称は申太郎,守部。号は隈山。

谷干城 たに-かんじょう

たに-たてき

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朝日日本歴史人物事典の解説

谷干城

没年:明治44.5.13(1911)
生年:天保8.2.12(1837.3.18)
明治期の陸軍軍人,政治家。土佐(高知)藩士万七の子。家系は土佐の著名な神道家で国粋派。安政6(1859)年江戸で2年間安井息軒の三計塾に学ぶ。帰郷して文武館の史学助教。桜田門外の変(1860)に触発され,また武市瑞山に啓発を受け尊王攘夷運動に参加。慶応1(1865)年藩命で長崎,上海視察,翌年西郷隆盛らと会談し薩土討幕密盟に加わった。戊辰戦争では大軍監として東北に転戦。明治4(1871)年兵部省に登用され,6~8年熊本鎮台司令長官。7年佐賀の乱の鎮定に当たり,台湾出兵の際は台湾蕃地事務参軍として西郷従道を補佐した。9年神風連の乱後熊本鎮台司令長官に再任,西南戦争(1877)で籠城2カ月,薩軍の攻撃に耐え熊本城を死守した。11年中将,東部監軍部長,その後陸軍士官学校長兼戸山学校長,中部監軍部長を歴任,14年長崎墓地移転問題で辞表を提出したが明治天皇は許さなかった。 同年開拓使官有物払下げ事件が起こると,鳥尾小弥太,三浦梧楼,曾我祐準らと払下げの再議,国憲創立議会の開設を建白,薩長専制を批判するとともに陸軍反主流派としての立場を強めた。このとき佐々木高行らと中正党を結成。17年学習院院長となる。18年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となって,19~20年に欧州視察をし,帰国後すぐに「時弊救匡策」を草して政府の情実,皮相な欧化政策をはげしく批判し,折から進行中の外相井上馨による条約改正にも反対して,農商務大臣を辞職。天皇は学習院御用掛,枢密顧問官などへの就任を希望したが,固辞した。また新聞『日本』(社長陸実)を主宰して「日本主義」を提唱,在野国権派の結集をはかろうとした。22年8月杉浦重剛,三浦らと日本倶楽部を結成して外相大隈重信による条約改正に反対,このとき民間の反対集会に参加したため予備役に編入された。議会開設(1890)以降は貴族院議員,懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築いた。日清戦争(1894~95)後の過大な領土的要求を戒めたり,31年地租増徴問題で反対し,日露開戦にも反対した。<参考文献>平尾道雄『子爵干城』,島内登志衛編『谷干城遺稿』

(田浦雅徳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

たにたてき【谷干城】

1837‐1911(天保8‐明治44)
明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。

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大辞林 第三版の解説

たにかんじょう【谷干城】

たにたてき【谷干城】

1837~1911) 軍人・政治家。土佐藩士。維新後兵部大丞となり、西南戦争に熊本鎮台司令官として熊本城を死守。第一次伊藤内閣の農商務相の時、井上馨外相の欧化主義に抗議して辞職。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

谷干城
たにたてき

[生]天保8(1837).2.12. 土佐,窪川
[没]1911.5.13. 東京
政治家,軍人。号は隈山。江戸に出て安積艮斎,安井息軒に学び藩校助教となり,戊辰戦争に従軍。明治4 (1871) 年陸軍裁判所長,1873年熊本鎮台司令長官として佐賀の乱を鎮定した。征台の役にも従軍。 77年再び熊本鎮台司令長官となり西南戦争では熊本城に2ヵ月籠城して西郷軍を阻止。 78年陸軍中将,陸軍士官学校長。 84年学習院長,華族女学校長となった。子爵。 86年第1次伊藤博文内閣の農商務相となったが,外相井上馨の条約改正案に反対して辞任。 90年貴族院議員。大隈外相の条約改正,地租増徴,日英同盟に反対した。日清,日露両戦争にも批判的であった。

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世界大百科事典内の谷干城の言及

【谷干城】より

…明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。…

【陸羯南】より

…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…

【西南戦争】より

…確かに政府は,この西郷の決起を機会に,士族反乱への徹底的鎮圧のてこにしようと考えていたのである。 2月下旬,熊本城は薩軍に包囲されたが,鎮台司令長官の陸軍少将谷干城がこれを死守し,博多から南下した政府軍と薩軍との間には激戦がくり返された。小倉分営の第14連隊長心得乃木希典少佐が薩軍に軍旗を奪われたのもこのときである。…

【日本】より

…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…

※「谷干城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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