幕末・明治期の軍人、政治家。名は「たてき」ともよばれる。土佐藩士谷万七・伊久の長男として、天保(てんぽう)8年2月12日土佐国(高知県)に生まれる。幼名申太郎、のち守部。号は隈山。江戸で修学ののち、土佐藩小目付(めつけ)役、致道館(ちどうかん)助教、長崎表探索御用(ながさきおもてたんさくごよう)などの役を勤め、1867年(慶応3)薩土盟約(さつどめいやく)交渉にもあたった。戊辰戦争(ぼしんせんそう)後は一時土佐藩政改革に関与。1871年(明治4)兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)に任ぜられて以後、陸軍裁判所長官、熊本鎮台司令長官、士官学校長ともっぱら軍職を歴任した。この間、西南戦争時には熊本籠城(ろうじょう)を経験。1878年陸軍中将。1881年鳥尾小弥太(とりおこやた)、三浦梧楼(みうらごろう)、曽我祐準(そがすけのり)とともに国憲創立、議会の開設を建白するなど、中正党派として活動した。1884年学習院長、1885年農商務大臣を歴任。1887年に西欧視察から帰朝、当時進行しつつあった井上馨(いのうえかおる)の条約改正に抗議辞職した。以後、極端な西欧模倣は日本をエジプトのような植民化に押しやるものであると批判し、日本の伝統に基づいた自力による着実な富国強兵(「日本主義」)を唱え、新聞『日本』を創刊し、大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正に反対する運動では日本倶楽部(くらぶ)を組織して活動した。1890年貴族院子爵議員、以後連続互選された。議会では政費節減、勤倹尚武を唱え政府批判派として活動。日清戦争後は軍拡抑制、地租増徴反対を主張し、また足尾銅山鉱毒事件を批判するなど少数派として特色ある活動をした。
[酒田正敏]
『平尾道雄著『子爵谷干城伝』(1935・冨山房)』▽『島内登志衛編『谷干城遺稿』全4巻(1975~1976・東京大学出版会)』▽『小林和幸著『谷干城――憂国の明治人』(中公新書)』
(田浦雅徳)
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明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。この年,三浦梧楼,鳥尾小弥太,曾我祐準と月曜会を組織し,国憲創立・議会開設を建白して軍主流派の山県有朋と対立して陸軍を去る。84年学習院院長,子爵。85年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となったが,井上馨外相の条約改正案と欧化主義に反対して87年7月に辞職。88年再び学習院院長となり,1890-1911年,貴族院の子爵議員となる。この間,1898年山県内閣の地租増徴案には農本主義の立場から貴族院の同志と反対同盟をつくり,12月には2000余人を集めて反対大会を開き,また1902年にも桂太郎内閣の地租増徴案には曾我らと農民保護を主張して強硬に反対した。日露開戦にも親露排英主義の立場から批判的立場をとった。なお,1889年には陸軍予備役に編入され,1906年に陸軍中将で退役した。11年旭日桐花大綬章を授けられ,正二位に叙せられた。
執筆者:後藤 靖
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明治期の陸軍中将,政治家,子爵 農商務相;貴院議員。
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1837.2.12~1911.5.13
幕末~明治期の高知藩士・軍人・政治家。土佐国生れ。戊辰(ぼしん)戦争で軍功をあげ,藩少参事として藩政改革に尽力。維新後,1871年(明治4)陸軍大佐・兵部権大丞。台湾出征後,熊本鎮台司令長官として西南戦争に遭遇,熊本城を堅守した。中将に昇進し,陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任。84年子爵。85年伊藤内閣の農商務相。閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し,条約改正問題で辞任。以後,貴族院議員として地租増徴に反対するなど独自な政治運動を展開した。
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…明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。…
…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…
…確かに政府は,この西郷の決起を機会に,士族反乱への徹底的鎮圧のてこにしようと考えていたのである。 2月下旬,熊本城は薩軍に包囲されたが,鎮台司令長官の陸軍少将谷干城がこれを死守し,博多から南下した政府軍と薩軍との間には激戦がくり返された。小倉分営の第14連隊長心得乃木希典少佐が薩軍に軍旗を奪われたのもこのときである。…
…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…
※「谷干城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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