日本大百科全書(ニッポニカ) 「パークス」の意味・わかりやすい解説
パークス(Van Dyke Parks)
ぱーくす
Van Dyke Parks
(1943― )
アメリカのポピュラー・ミュージシャン、プロデューサー。ミシシッピ州生まれ。アメリカ・ポピュラー音楽界の鬼才とよばれる。ハリウッドの子役としてスタートし、続いてウォルト・ディズニー社とソングライターとして契約し、シングル盤もこの時代に残している。また、ボビー・ビーBobby Vee(1943― )に「ハイ・コイン」を書き、モジョー・メン、ハーパーズ・ビザールなどのロサンゼルスのローカル・ミュージシャンのプロデュースを行った。
パークスの名がポピュラー・ミュージック界で広く知られるようになったのは、バーズのサイケデリック・ロック「霧の8マイル」(1966)におけるキーボード演奏と、ブライアン・ウィルソンBrian Wilson(1942― )と共同制作したビーチ・ボーイズのアルバム『スマイル』によってだった(同アルバムはビーチ・ボーイズ側の事情でお蔵入りとなった)。そしてビーチ・ボーイズの「英雄と悪漢」(1967)のプロデュースと、制作に4年を費やした自身の初ソロ・アルバム『ソング・サイクル』(1968)で、パークスはフィル・スペクター以降のもっとも革命的なスタジオ・ワークの担い手という評価を獲得した。スペクターの壮大なオーケストレーションとテープ・ディレイ(原音と、それを遅らせた反響音を重ね合わせる音響効果)の使用法を、さらに極限まで展開させたパークスのサウンドの万華鏡は、一部で高い評価を得たものの商業的には失敗する。
1960年代後半からは、ライ・クーダー、ランディ・ニューマンRandy Newman(1943― )、リトル・フィートといった1970年代のアメリカン・ロックを担う俊英たちのプロデュースを手がける。
その後、パークスの関心はニュー・オーリンズ音楽のシンコペーションとカリビアン・ミュージックに向かい、2枚目のソロ・アルバム『ディスカヴァー・アメリカ』(1972)には、トリニダード島のカリプソのリズムと、スチール・ドラム(ドラム缶を再生してつくった楽器)が大胆に取り入れられていた。さらにカリプソの第一人者マイティ・スパローMighty Sparrow(1935― )の『ホット・アンド・スウィート』(1974)、エッソ・トリニダード・スチール・バンドのデビュー作(1974)などもプロデュース。またソロ3作目『ヤンキー・リーパー』(1976)には、ストレートなカリプソやソカ(1970年代につくられたカリブ音楽。名前はソウル・ミュージックとカリプソからとられた)が収められていた。
それらと並行してハリー・ニルソンHarry Nilsson(1941―1994)のアルバム・プロデュースやリトル・フィートのホーン・アレンジを手がけている。また、日本のロック・バンド、はっぴいえんどのサード・アルバム『Happy End』(1973)のなかの「さようならアメリカ、さようならにっぽん」のプロデュースも担当している。
1980年代は、アメリカの昔話を素材にしたブロードウェー・ミュージカル『ジャンプ!』(1984)、ロバート・アルトマン監督の『ポパイ』(1980)のサウンドトラック、『東京ローズ』(1989)などをリリース。そのほかライ・クーダーが手がけた映画音楽、さらにはシド・ストローSyd Straw(1956― )、ピーター・ケースPeter Case(1954― )、ジョー・ヘンリーJoe Henry(1960― )といった新進のシンガー・ソングライターのアレンジ、プロデュースを手がける一方で、旧友ブライアン・ウィルソンとのアルバムをリリースするなどの活動を行う。
[中山義雄]
パークス(Sir Harry Smith Parkes)
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Sir Harry Smith Parkes
(1828―1885)
イギリスの外交官、幕末維新期の駐日イギリス公使。イングランドのスタッフォードシャーに生まれる。1841年、中国のアヘン戦争に従軍、1844年に厦門(アモイ)で通弁官となり、以後福州、上海(シャンハイ)、厦門、広東(カントン)と転勤し、1854年厦門領事に就任。翌1855年全権委員として英・タイ条約を締結し、1856年には広東領事代理となる。アロー戦争(第二次アヘン戦争)では、1860年英仏連合軍に加わって従軍したが捕虜となる。1865年(慶応1)5月、初代駐日公使オールコックの後任として日本に赴任し、駐日全権公使に就任し、以後、1883年(明治16)までその職にあった。その間、その政治的手腕を発揮して幕末諸条約の勅許や改税約書の調印に成功し、また江戸城開城を斡旋(あっせん)した。彼の対日外交政策は、激動する維新期の日本の政局の渦中にあって、日本に開明的な政府を樹立させ、これを支援して政局を安定させ、完全な開国を実現させ、自国の利益の貫徹を図るという、いわゆる開化慫慂(しょうよう)政策ともいうべきもので、武力を背景に開国と自由貿易政策を強要する砲艦政策(ガンボート・ポリシー)を一枚脱皮した政策であった。
彼はそのため、薩摩(さつま)や長州の開明的政治勢力に接近してこれを支援し、倒幕・明治新政府樹立の政治路線の推進に大きな役割を果たした。この点では、幕府を援助して将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的優位を確立しようとしたフランス公使ロッシュと対立的関係にあった。パークスは戊辰(ぼしん)戦争では局外中立を表明し、列国の外交団をこれに追随させ、また明治政府を最初に承認して、その後も、成立直後の新政府が対外的難局に直面すると、助言を与えて政治的基盤の確立に力を貸し、日本に対する自国の指導的立場を固めることに尽力した。また、条約改正問題では寺島宗則(てらしまむねのり)外務卿(きょう)の条約改正案には反対した。井上馨(いのうえかおる)の改正予議会の翌年1883年1月に駐清(しん)公使に転じ、1884年駐韓公使を兼ね、1885年北京(ペキン)で没した。
[加藤榮一]
パークス(Alexander Parkes)
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Alexander Parkes
(1813―1890)
イギリスの化学者、発明家。バーミンガムの生まれ。同地の金属加工業に勤め、1841年、美術品のような繊細なものの銀めっきの改良に関する発明で最初の特許をとり、最終的にはこの分野で50余りの特許をとった。鉛の脱銀法(1850)や非鉄金属の合金に関する発明でも知られる。
彼はゴムやプラスチックの分野でも業績をあげた。まずゴムやニトロセルロースの耐水性に注目し、1846年にはゴムの常温加硫法を開発、工業化したが、これは薄いゴム製品の生産に重要であった。1855年には、アメリカのJ・W・ハイアットに先駆けてセルロイドの製法を発明し、特許を得た。
[山崎俊雄]