パークス(読み)ぱーくす(その他表記)Van Dyke Parks

デジタル大辞泉 「パークス」の意味・読み・例文・類語

パークス(Harry Smith Parkes)

[1828~1885]英国の外交官。慶応元年(1865)駐日公使として赴任。フランス公使ロッシュと対立して薩長を支援。明治新政府の外交政策を援助したが、条約改正には反対した。

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精選版 日本国語大辞典 「パークス」の意味・読み・例文・類語

パークス

  1. ( Sir Harry Smith Parkes サー=ハリー=スミス━ ) イギリスの外交官。慶応元~明治一六年(一八六五‐八三)、駐日公使として在日。明治維新の際、薩長と親交を結び討幕運動を援助、維新後も日本の外交に影響を与えた。(一八二八‐八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パークス」の意味・わかりやすい解説

パークス(Van Dyke Parks)
ぱーくす
Van Dyke Parks
(1943― )

アメリカのポピュラー・ミュージシャン、プロデューサーミシシッピ州生まれ。アメリカ・ポピュラー音楽界の鬼才とよばれる。ハリウッドの子役としてスタートし、続いてウォルト・ディズニー社とソングライターとして契約し、シングル盤もこの時代に残している。また、ボビー・ビーBobby Vee(1943― )に「ハイ・コイン」を書き、モジョー・メン、ハーパーズ・ビザールなどのロサンゼルスのローカル・ミュージシャンのプロデュースを行った。

 パークスの名がポピュラー・ミュージック界で広く知られるようになったのは、バーズのサイケデリック・ロック「霧の8マイル」(1966)におけるキーボード演奏と、ブライアン・ウィルソンBrian Wilson(1942― )と共同制作したビーチ・ボーイズのアルバム『スマイル』によってだった(同アルバムはビーチ・ボーイズ側の事情でお蔵入りとなった)。そしてビーチ・ボーイズの「英雄と悪漢」(1967)のプロデュースと、制作に4年を費やした自身の初ソロ・アルバム『ソング・サイクル』(1968)で、パークスはフィル・スペクター以降のもっとも革命的なスタジオ・ワークの担い手という評価を獲得した。スペクターの壮大なオーケストレーションとテープ・ディレイ(原音と、それを遅らせた反響音を重ね合わせる音響効果)の使用法を、さらに極限まで展開させたパークスのサウンドの万華鏡は、一部で高い評価を得たものの商業的には失敗する。

 1960年代後半からは、ライ・クーダー、ランディ・ニューマンRandy Newman(1943― )、リトル・フィートといった1970年代のアメリカン・ロックを担う俊英たちのプロデュースを手がける。

 その後、パークスの関心はニュー・オーリンズ音楽のシンコペーションとカリビアン・ミュージックに向かい、2枚目のソロ・アルバム『ディスカヴァー・アメリカ』(1972)には、トリニダード島のカリプソのリズムと、スチール・ドラム(ドラム缶を再生してつくった楽器)が大胆に取り入れられていた。さらにカリプソの第一人者マイティ・スパローMighty Sparrow(1935― )の『ホット・アンド・スウィート』(1974)、エッソ・トリニダード・スチール・バンドのデビュー作(1974)などもプロデュース。またソロ3作目『ヤンキー・リーパー』(1976)には、ストレートなカリプソやソカ(1970年代につくられたカリブ音楽。名前はソウル・ミュージックとカリプソからとられた)が収められていた。

 それらと並行してハリー・ニルソンHarry Nilsson(1941―1994)のアルバム・プロデュースやリトル・フィートのホーン・アレンジを手がけている。また、日本のロック・バンド、はっぴいえんどのサード・アルバム『Happy End』(1973)のなかの「さようならアメリカ、さようならにっぽん」のプロデュースも担当している。

 1980年代は、アメリカの昔話を素材にしたブロードウェーミュージカル『ジャンプ!』(1984)、ロバート・アルトマン監督の『ポパイ』(1980)のサウンドトラック、『東京ローズ』(1989)などをリリース。そのほかライ・クーダーが手がけた映画音楽、さらにはシド・ストローSyd Straw(1956― )、ピーター・ケースPeter Case(1954― )、ジョー・ヘンリーJoe Henry(1960― )といった新進のシンガー・ソングライターのアレンジ、プロデュースを手がける一方で、旧友ブライアン・ウィルソンとのアルバムをリリースするなどの活動を行う。

[中山義雄]


パークス(Sir Harry Smith Parkes)
ぱーくす
Sir Harry Smith Parkes
(1828―1885)

イギリスの外交官、幕末維新期の駐日イギリス公使。イングランドスタッフォードシャーに生まれる。1841年、中国のアヘン戦争に従軍、1844年に厦門(アモイ)で通弁官となり、以後福州、上海(シャンハイ)、厦門、広東(カントン)と転勤し、1854年厦門領事に就任。翌1855年全権委員として英・タイ条約を締結し、1856年には広東領事代理となる。アロー戦争(第二次アヘン戦争)では、1860年英仏連合軍に加わって従軍したが捕虜となる。1865年(慶応1)5月、初代駐日公使オールコックの後任として日本に赴任し、駐日全権公使に就任し、以後、1883年(明治16)までその職にあった。その間、その政治的手腕を発揮して幕末諸条約の勅許や改税約書の調印に成功し、また江戸城開城を斡旋(あっせん)した。彼の対日外交政策は、激動する維新期の日本の政局の渦中にあって、日本に開明的な政府を樹立させ、これを支援して政局を安定させ、完全な開国を実現させ、自国の利益の貫徹を図るという、いわゆる開化慫慂(しょうよう)政策ともいうべきもので、武力を背景に開国と自由貿易政策を強要する砲艦政策(ガンボート・ポリシー)を一枚脱皮した政策であった。

 彼はそのため、薩摩(さつま)や長州の開明的政治勢力に接近してこれを支援し、倒幕・明治新政府樹立の政治路線の推進に大きな役割を果たした。この点では、幕府を援助して将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的優位を確立しようとしたフランス公使ロッシュと対立的関係にあった。パークスは戊辰(ぼしん)戦争では局外中立を表明し、列国の外交団をこれに追随させ、また明治政府を最初に承認して、その後も、成立直後の新政府が対外的難局に直面すると、助言を与えて政治的基盤の確立に力を貸し、日本に対する自国の指導的立場を固めることに尽力した。また、条約改正問題では寺島宗則(てらしまむねのり)外務卿(きょう)の条約改正案には反対した。井上馨(いのうえかおる)の改正予議会の翌年1883年1月に駐清(しん)公使に転じ、1884年駐韓公使を兼ね、1885年北京(ペキン)で没した。

[加藤榮一]


パークス(Alexander Parkes)
ぱーくす
Alexander Parkes
(1813―1890)

イギリスの化学者、発明家。バーミンガムの生まれ。同地の金属加工業に勤め、1841年、美術品のような繊細なものの銀めっきの改良に関する発明で最初の特許をとり、最終的にはこの分野で50余りの特許をとった。鉛の脱銀法(1850)や非鉄金属の合金に関する発明でも知られる。

 彼はゴムやプラスチックの分野でも業績をあげた。まずゴムやニトロセルロースの耐水性に注目し、1846年にはゴムの常温加硫法を開発、工業化したが、これは薄いゴム製品の生産に重要であった。1855年には、アメリカのJ・W・ハイアットに先駆けてセルロイドの製法を発明し、特許を得た。

[山崎俊雄]

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朝日日本歴史人物事典 「パークス」の解説

パークス

没年:1885.3.22(1885.3.22)
生年:1828.2.24
幕末明治期のイギリスの外交官。イングランドのスタッフォードシャー,バーチルズ・ホールに,鉄工場主であった父ハリーの長男として生まれる。4,5歳で両親を相次いで亡くし,父の兄弟に育てられる。1838年キング・エドワード・グラマースクール入学。41年10月,マカオ在留の語学者ギュッツラフ家に寄留していたふたりの姉のところに合流し,中国語の勉強に専念する。42年5月,満14歳でロバート・モリソン書記官兼第1通訳官のもとで外交官の道に入り,同年8月,南京条約の調印式に参列。44年厦門のイギリス領事館通訳官となり,領事オールコックに認められる。54年厦門領事,56年6月広東領事代理となるが,アロー号事件が発生し事実上の総督として活躍。60年7月,北京攻略戦に参加,特派使節ブルースのもとで首席通訳官となり,11月北京入城を果たした。62年5月,バス勲位2等勲爵士となる。64年上海領事となるが,翌慶応1(1865)年3月,日本駐在公使に任命され閏5月16日横浜に着任した。 パークスは当時の難題であった長州問題,特に賠償金問題と条約勅許問題に取り組み,機敏な行動と忍耐力で在日外交団をまとめ上げ同問題を解決。その後,薩摩や長州に接近するとともに幕府からも離れない立場をとり,前任者オールコックとは異なり日本の政局に積極的に働きかける態度は示さなかった。だが,戊辰戦争に際して局外中立を宣言したことは,結果的に,幕府側が外国の援助を受けるのを妨げる方策となった。灯台,電信,鉄道など近代西洋文明の早急な導入を日本政府に勧告し,部下には日本研究を奨励,日本アジア協会の会長を2度務めた。明治10年代の検疫問題や条約改正問題では,日本側に妥協しない辣腕ぶりを示した。明治14(1881)年聖ミカエル・聖ジョージ勲位を受け,同16年,北京駐在公使に転任し,同年8月離日。翌年,朝鮮駐在全権公使を兼任した。<参考文献>F.V.ディキンズ,高梨健吉訳『パークス伝』

(内海孝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パークス」の意味・わかりやすい解説

パークス
Parkes, Alexander

[生]1813.12.29. バーミンガム
[没]1890.6.29. ロンドン
イギリスの化学者,発明家。各種の工業プロセスや工業素材を開発したことで知られる。パークスの研究の大部分は冶金技術に関するものであった。合金に少量のリンを添加して強度を増す手法を早くに提唱した一人である。重要な発明の一つに 1850年に特許を取得した鉛鉱石からのの抽出法がある。一般にパークス法と呼ばれるこの工程では,亜鉛を加えて溶解させる。これを攪拌すると溶融亜鉛が反応し,鉛中の銀や金と化合物を形成する。この亜鉛化合物は鉛より軽いため,冷却すると表面に浮かぶので,容易に分離することができる。もう一つの重要な貢献は,1841年のゴム溶液と二硫化炭素を使って布を防水加工する冷加硫法の発見である。また,1856年には,ニトロセルロースとアルコール,ショウノウ(カンファー),油を混合したものからパークシンと呼ばれる可撓性材料をつくり,最初のプラスチックであるセルロイドの開発に先鞭をつけた。

パークス
Parkes, Sir Harry Smith

[生]1828.2.24. スタッフォード,バーチルズホール
[没]1885.3.22. 北京
幕末,明治初期の駐日イギリス全権公使。幼時,父母を失い,1841年 10月アヘン戦争下の極東におもむいて,少年時代から清国駐在イギリス当局の事務に従事した。通訳生,通訳官を経て領事に進み,56年以降数年にわたって続いたアロー戦争では,清国官憲と激しく応酬し,陣中で捕虜になったこともある。 65年3月上海領事から駐日特命全権公使に昇任。自由貿易主義の立場から日本国内の通商障害に激しく抗議したが,幕府と薩長倒幕派との内戦状態には局外中立を守った。明治新政府に対しては強い影響力をもち,西洋文明の導入に協力したが,不平等条約の改正に対しては難色を示した。 83年駐清全権公使に転じ,まもなくリウマチで没した。

パークス
Parkes, Sir Henry

[生]1815.5.27. ウォリックシャー,ストーンリー
[没]1896.4.27. シドニー
オーストラリアの政治家。オーストラリア連邦の父といわれる。イギリスの貧しい家に生れ,象牙細工職人となったが,1839年オーストラリアのシドニーに移住。 50~58年シドニーで政治新聞『エンパイア』を編集,刊行し,オーストラリア社会の体質改善を主張,本国から徒刑囚の送り込みに反対した。 56年立法議会議員。 72~91年の間5回にわたりニューサウスウェールズの首相となり,オーストラリアの経済的自立化と自由貿易の発展,教育の充実,連邦の結成などに貢献した。自叙伝『オーストラリア建国 50年史』 Fifty Years in the Making of Australian History (1892) の著書がある。

パークス
Parkes

オーストラリア,ニューサウスウェールズ州,シドニーの西約 360kmにある町。 1860年代のゴールドラッシュの歴史をもつが,現在は小麦をはじめとする農牧中心都市の一つで,農産加工,鋳造,鉄鋼工業などが立地。近くに世界有数の電波望遠鏡 (1961) がある。人口 8739 (1986) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「パークス」の意味・わかりやすい解説

パークス
Harry Smith Parkes
生没年:1828-85

イギリスの外交官。幕末期オールコックに続いて2代駐日公使となった。スタッフォードシャー生れ。13歳で中国に赴き,H.ポッティンジャー特命公使の下で働く。その後,広東,厦門(アモイ),上海などの外交官を歴任,イギリス・シャム条約の締結にも従事した。1856年に広東領事代理となり,61年まで第2次アヘン戦争をめぐるイギリス,清国間の外交交渉に尽力,天津条約,北京条約の締結をみた。65年(慶応1)3月駐日特命全権公使兼総領事に任命され,同年閏5月横浜に着任,E.M.サトーらを従え,近代日本の形成に強い影響を与えた。65年にフランス,アメリカ,オランダとともに艦隊の圧力で条約勅許を獲得,その後は,幕府支援のフランスに対抗して倒幕派に接近,68年(明治1)の戊辰戦争では局外中立を実現し,倒幕派を支持した。明治維新後は,貨幣鋳造やキリスト教の問題で日本の政策変更を強要,また条約改正交渉では各国外交団をリードしてこれに抵抗した。83年,清国駐在公使兼朝鮮駐在公使に転じ,2年後北京で客死した。
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百科事典マイペディア 「パークス」の意味・わかりやすい解説

パークス

英国の外交官。1865年から18年間駐日特派全権公使。幕末,列強の対日外交団を指導して改税約書の締結に成功。諸藩の連合政権の成立を予想し,幕府を援助するフランス公使ロッシュと対抗。戊辰戦争では局外中立を保ち,倒幕派を支援,江戸城の無血開城を斡旋(あっせん)。維新後もさまざまな問題で日本の政策変更を強要,1874年の台湾出兵にも介入,のちその強圧的外交が非難され清国公使に転じた。F.V.ディキンズの著した伝記《パークス伝》がある。
→関連項目サトー

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「パークス」の解説

パークス
Harry Smith Parkes

1828.2.24~85.3.22

イギリスの外交官。厦門(アモイ)領事・広東代理領事・上海領事をへて,1865年(慶応元)閏5月駐日公使として横浜に着任,幕末・維新期の列国の対日外交をリードした。攘夷政策から積極的な通商貿易に転換した鹿児島・萩両藩に接近し,幕府を熱心に支持した駐日フランス公使ロッシュと激しく対立。またイギリスの自由貿易主義政策を強硬に遂行し改税約書を締結した。戊辰戦争では局外中立の立場で江戸城無血開城に尽力し,68年(明治元)閏4月列国に先がけて明治新政府を承認。78年外務卿寺島宗則による条約改正交渉では,強圧的外交で反対論を主張。83年7月駐清国公使に転じ,85年北京で客死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「パークス」の解説

パークス Parkes, Sir Harry Smith

1828-1885 イギリスの外交官。
1828年2月24日生まれ。慶応元年(1865)駐日公使兼総領事として来日。列国外交団を指導して改税約書に調印。薩長両藩を支援して幕府支持のフランス公使ロッシュと対立する。列国にさきがけて新政府を承認したが,強圧的外交を展開。明治16年清(しん)(中国)駐在公使となり,1885年3月22日北京で客死。57歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「パークス」の解説

パークス
Sir Harry Smith Parkes

1828〜85
幕末・維新期,イギリスの外交官
1865年,オールコックの後任の駐日公使として赴任。フランス公使ロッシュが幕府を援助して徳川慶喜 (よしのぶ) の幕政改革を指導したのに対し,パークスは薩摩・長州の武力討幕派を援助し,明治維新の変革に大きな役割を演じた。戊辰戦争では局外中立の立場で江戸無血開城に尽力。'83年清国公使に転じ北京で客死。

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世界大百科事典(旧版)内のパークスの言及

【樺太・千島交換条約】より

…明治政府が旧幕府からひきついだ北方領土の状況は,安政1年12月21日(1855年2月7日)調印の日露和親条約以来,樺太(サハリン)は日露両国民雑居の地とされ帰属未解決のままであり,千島(クリル)列島は択捉(えとろふ)島,ウルップ島の間を日露の境界とし,その以北をロシア領としてきた。イギリス公使パークスは日本の樺太放任はロシア領化を招くと警告し,ロシアに売却するか代地と交換するのを良策とし,むしろ北海道開拓に専念するよう忠告した。樺太では日露両国雑居のため紛争が絶えず,南下するロシアに対抗する軍事力,経済力を日本がもたぬため,1874年1月,政府は榎本武揚を海軍中将,特命全権公使として,彼我雑居を廃し境界を定むること,樺太全島をロシア領とする代地としてウルップ島よりカムチャツカに連なる千島諸島を日本が受領することを指示した。…

【第2次アヘン戦争】より

…1856年(咸豊6)10月8日,広東前面の珠江に停泊していた,香港船籍,中国人所有のローチャ船アロー号(実際は船籍期限が切れていた)のイギリス国旗が中国兵によって引き下ろされ,船員は海賊容疑で拉致された。当時,中国・イギリス間の条約改訂交渉が進を見せておらず,イギリスの中国駐在公使兼香港総督J.ボーリングと広東領事H.S.パークスは,アロー号問題を強引に〈事件〉にして本国に開戦を促し,両広総督葉名琛(ようめいちん)(1807‐59)との交渉を決裂させた。広東周辺では反英運動が高まり,他方,本国のパーマストン内閣は開戦を決定したが,翌年2月下院でR.コブデンの政府反対決議が可決され,パーマストンは解散,総選挙によって開戦を強行した。…

※「パークス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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