史天沢(読み)してんたく(その他表記)Shǐ Tiān zé

改訂新版 世界大百科事典 「史天沢」の意味・わかりやすい解説

史天沢 (してんたく)
Shǐ Tiān zé
生没年:1202-75

モンゴル帝国・元の功臣。字は潤甫。大都永清(河北省)の人。金末,河北の豪族史秉直(しへいちよく)の子。1213年,一族とともにモンゴルムハリ(木華黎)に下った。真定(河北省)を地盤として勢力を保ち,太宗のとき万戸に任ぜられ,漢地の四大世侯に数えられる。世祖フビライには皇太子時代から信任厚く,1261年(中統2)漢人としては最初の宰相に任ぜられた。世祖に従ってアリクブカ(阿里不哥)を討ち,李璮(りたん)の反乱鎮定にも功をたてた。南宋攻略戦中に病を得て,真定に帰り没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「史天沢」の意味・わかりやすい解説

史天沢
してんたく
(1202―1275)

中国・金朝末、モンゴル軍に協力した、河北の有力者。史氏一門出身。兄の天倪(てんげい)がモンゴルの支配に反対する武遷に殺されたのち、都元帥職を継ぎ、真定(河北省正定県)に鎮守し、河北四大軍閥の一つとなった。1260年、フビライが弟アリク・ブハとハン位を争ったときは、フビライについて、中書右丞相(ちゅうしょうじょうしょう)に任じられるとともに戦功をあげ、また同時期の山東の軍閥、李(りたん)の蜂起(ほうき)の鎮圧にも力があった。また、フビライの侍衛軍団が同時期につくられたが、その将校15人中6人が史天沢の麾下(きか)であった。74年、南宋(なんそう)平定軍を率いたが、途上、病を得て、翌年死去した。

[松田孝一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「史天沢」の意味・わかりやすい解説

史天沢
してんたく
Shi Tian-ze; Shih T`ien-tsê

[生]嘉泰2(1202)
[没]至元12(1275)
モンゴル帝国から元初にかけての功臣。永清 (河北省) の人。字は潤甫。諡は忠武体格武勇に秀でていた。太祖8 (1213) 年父,兄とモンゴル軍にくだり,太宗オゴデイ即位後真定,河間,大名,東平,済南五路万戸に任じられ,漢地の四大諸侯の一人に成長。世祖フビライ・ハンと早く知合い,彼の即位と同時にその諮問に応じ,治国安民の策を献じ,翌年中書右丞相に任じられ,漢人では最も重んじられた。アリク・ブガ (阿里不哥)の乱,李たんの乱,南宋征討に軍功を立てた。鎮陽王に追封された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「史天沢」の解説

史天沢(してんたく)
Shi Tianze

1202~75

モンゴル帝国およびの功臣。河北省の永清の人。1213年父とモンゴル軍に降る。太宗(オゴデイ)の治世には厳実(げんじつ),張柔(ちょうじゅう),劉黒馬(りゅうこくば)とともに華北の四大漢人軍閥に数えられた。世祖(クビライ)のとき漢人統治について進言し,漢人で最初の中書右丞相(ちゅうしょうじょうしょう)となった。アリク・ブケの乱その他に功績を立てたが,南宋討伐の際病死した。

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