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武田泰淳 たけだたいじゅん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

武田泰淳
たけだたいじゅん

[生]1912.2.12. 東京
[没]1976.10.5. 東京
小説家。東京大学支那文学科在学中左翼運動に参加,1932年中退。 34年竹内好らと「中国文学研究会」を創設,35年機関誌『中国文学月報』 (のち『中国文学』) を創刊。 37年召集,中国に派遣され,39年除隊,43年評伝『司馬遷』を発表,44年上海に渡り敗戦を迎えた。

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デジタル大辞泉の解説

たけだ‐たいじゅん【武田泰淳】

[1912~1976]小説家。東京の生まれ。「蝮(まむし)のすゑ」などによって戦後派作家として注目され、以後、現実の社会問題と取り組んだ作品が多い。小説「風媒花」「ひかりごけ」「森と湖のまつり」「富士」、評伝「司馬遷」など。

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百科事典マイペディアの解説

武田泰淳【たけだたいじゅん】

小説家。東京生れ。東大支那文学科中退。1934年竹内好らと中国文学研究会を結成。1937年召集されて中国で戦場を体験。除隊後,1943年,評伝《司馬遷》を刊行,1944年再び中国に渡り,上海で敗戦を迎える。
→関連項目近代文学戦後派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

武田泰淳 たけだ-たいじゅん

1912-1976 昭和時代の小説家。
明治45年2月12日生まれ。昭和9年竹内好(よしみ)らと中国文学研究会をつくる。12年召集され中国を転戦し14年除隊。18年評伝「司馬遷」を刊行する。上海で敗戦をむかえ帰国,敗戦体験をもとに「審判」「蝮(まむし)のすゑ」などを発表,第1次戦後派の代表的作家として活動した。昭和51年10月5日死去。64歳。東京出身。東京帝大中退。旧姓は大島。幼名は覚(さとる)。作品はほかに「ひかりごけ」「森と湖のまつり」「富士」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

たけだたいじゅん【武田泰淳】

1912‐76(大正1‐昭和51)
小説家。東京本郷の寺院住職の子として生まれる。幼名覚。浦和高校在学中に中国文学に親しみ,また左翼運動にも加わる。1931年東大支那文学科入学後間もなく逮捕拘留され,左翼運動に挫折。東大も中退し僧侶の資格を得るが,僧家に生まれ,また僧であることに屈折した恥ずかしさを自覚する。34年竹内好らと中国文学研究会を結成するが,37年応召し輜重(しちよう)兵として中支戦線に赴き,その中国体験,戦場体験は決定的なものとなる。

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大辞林 第三版の解説

たけだたいじゅん【武田泰淳】

1912~1976) 小説家。東京生まれ。東大中退。戦前の転向体験や中国での戦争体験から思索を深め、極限的状況下での人間性の問題を追求した。評伝「司馬遷」、小説「風媒花」「ひかりごけ」「富士」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

武田泰淳
たけだたいじゅん
(1912―1976)

小説家。明治45年2月12日、東京・本郷に生まれる。父、仏教学者大島泰信の師僧武田芳淳の遺言により、出生時より武田姓を継ぐ。幼名覚(さとる)。京北中学より旧制浦和高校に入学、中国文学に親しみ、左翼組織の反帝グループに加盟。東京帝国大学支那(しな)文学科に入学するが中退。学生時代、左翼運動に加わり、三度の逮捕ののち転向。芝増上寺の道場で僧侶(そうりょ)の資格をとる。1934年(昭和9)竹内好(よしみ)らと中国文学研究会をつくり、機関誌『中国文学月報』に論文や翻訳を発表。37年輜重(しちょう)兵として中国に派遣され、上等兵で除隊、『司馬遷』(1943)を書き、転向と戦場での重い体験を、苦い独自な歴史観に結実させた。その後、中日文化協会に就職、上海(シャンハイ)で敗戦を迎え帰国、45年(昭和20)北海道大学法文学部助教授になったが翌年辞職。敗戦体験から得た滅亡の観念を軸に、47年『審判』『秘密』『蝮(まむし)のすゑ』と相次いで問題作を発表し、戦後作家として出発した。『「愛」のかたち』(1948)、『悪らしきもの』(1949)、『異形(いぎょう)の者』(1950)、『風媒花(ふうばいか)』(1952)、『ひかりごけ』(1954)と鋭い倫理性をもって、人間存在を告発する力作を積み上げ、一方で『人間・文学・歴史』(1954)のような優れた評論を発表する。55年以降その活動は長編小説中心となり、アイヌ民族解放を中心とする人間模様を描いた『森と湖のまつり』(1955~58)、権力者の構造を冷徹な女の視線でとらえた『貴族の階段』(1959)、現代における宗教と政治の関係を追究した未完の自伝的長編『快楽(けらく)』(1960~64)、何が正常で何が異常かという根源的問題を極限まで追究した代表作『冨士(ふじ)』(1969~71)など、戦後文学の記念碑的な作品を残した。晩年、脳血栓で倒れながら、口述筆記による『目まいのする散歩』(1976)も残された。泰淳の文学は、聖性と悪を、ともに世界における疑いえぬ実在としてとらえようとする多元的な眼(め)によって、人間存在の混沌(こんとん)を混沌のままに描こうとするもので、思想家としての力量の大きなところに、その魅力がある。昭和51年10月5日没。[助川徳是]
『『武田泰淳全集』16巻・別巻一(1971~73・筑摩書房) ▽松原新一著『武田泰淳論』(1970・審美社) ▽粟津則雄著『主題と構造――武田泰淳と戦後文学』(1977・集英社)』

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世界大百科事典内の武田泰淳の言及

【司馬遷】より

武田泰淳の評論。1943年,日本評論社刊。…

【秋瑾】より

…そこに収める詩文は,中国の女性史に一閃の光芒を放った生涯の激越さをうかがうに足るものがある。秋瑾をモデルにした人物を登場させる魯迅の小説《薬》は周知の作品であるが,武田泰淳《秋風秋雨人を愁殺す》は,秋瑾の絶命詞(この詞については真偽さだかでない)を題にかぶせた秋瑾伝の秀作である。【須山 優】。…

【ひかりごけ】より

武田泰淳の短編小説。後半が2幕の戯曲になっている。…

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