中国,前漢の学者。広川(河北省)の人。若くして春秋公羊学(くようがく)を修め,3年のあいだ庭に出ることもなく,猛勉強したという。人柄が謙虚であり,言動はつねに礼法にかなっていたので,信望が高く,景帝のとき博士となった。武帝が位につくと,賢良として策問に応じて,〈六芸(りくげい)の科,孔子の術にあらざる〉諸子百家をしりぞけて,儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上し,この意見がきっかけとなって儒教の国教化が実現した。のち江都国の相(しよう)(行政長官)となって,易王(武帝の兄)に仕えた。王は驕慢で勇を好んだが,董仲舒は礼義をもって教導し,大いに敬重された。《春秋》の災異説によって,雨を降らせたり止めたりしたのは,この時期のことである。陰陽五行説にもとづいて災異を説くのは彼の思想の特色といってよく,《漢書》五行志や《後漢書》礼儀志には,災異に関する見解や求雨の法が見えている。ついで中大夫にうつり,陰陽災異のことで筆禍にあい,あやうく死罪になるところを,詔によって許された。その後,丞相の公孫弘に嫌われて,悪名たかい膠西王(こうせいおう)の相に転出させられ,王の処遇は丁重であったが,久しく官位にとどまって罪をうけるのを恐れ,病気と称して辞任した。以後ふたたび官につくことをせず,研究と著述にはげんだ。朝廷は重大問題がおこると,しばしば使者をつかわして意見を求め,彼は《春秋》の理論によって解答したといわれる。
董仲舒の功績は,中央集権体制のそなわった漢帝国が支配の原理を求めていたとき,旧来の儒説を整理更改して,内容ゆたかな一体系のもとに再構成したことにある。そこには体制への適応の理論とともに,抵抗の思想を準備するという二面性が見られるが,君主権の抑制のために提起した災異説は大きな意義をもち,革命に関する論議は卓見にとむ。主著として《春秋繁露》がある。《公羊治獄》16編,《董仲舒》123編は,今は伝わらない。
執筆者:日原 利国
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中国、前漢の大学者。河北省広川(こうせん)の人。若くして春秋公羊学(しゅんじゅうくようがく)を修め、3年の間庭にも出ないで勉励したという。人柄が謙譲であり、言動はつねに礼法にかなっていたので、信望が高く、景帝のとき博士に任ぜられた。武帝の初めに、「六芸(りくげい)の科、孔子の術にあらざる」諸子百家を退けて、儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上し、この意見がきっかけとなって儒教の国教化が実現した。のち江都(こうと)国の相(しょう)(行政長官)となり、『春秋』の災異説によって雨を降らせたり止めたりしたという。中大夫(ちゅうたいふ)に遷(うつ)り、陰陽災異を述べて筆禍にあい、あやうく死罪になりかけた。その後公孫弘(こうそんこう)(前200―前121)に嫌われて、悪名高い膠西(こうせい)王の相に転出させられ、王の処遇は丁重であったが、病気を理由にして職を辞し、研究に専念した。朝廷は、重大問題がおこると使者を遣わして意見を求め、董仲舒は『春秋』の理論によって解答を与えた。主著の『春秋繁露(はんろ)』は公羊学の立場から『春秋』の精神を説いたもので、その礼楽(れいがく)説、天人相関説、災異説、革命理論など、漢代の思想を方向づけ、清(しん)末の公羊学派にも大きな影響を与えた。『漢志』にみえる『公羊治獄(ちごく)』16篇(へん)、『董仲舒』123篇は現存しない。
[日原利国 2016年1月19日]
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前176頃~前104頃
前漢の学者。広川(河北省呉橋県)の人。『春秋』の学を修め,景帝のとき博士となる。武帝のとき文教政策を建言した。儒学は彼によって体系づけられ,中国の政治理念となった。主著『春秋繁露』。
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…さらに五行にはそれぞれにふさわしいシンボルカラーや音や味などが配当され,もし為政者が各季節に合致した政治を行わないと(春に夏令を行ったりすると),自然と人間の調和が狂って災害が生じるとする。この天人相関にもとづく時令思想は,漢代に災異説(災異思想)へと展開し,董仲舒(とうちゆうじよ)は天子が天意に合わない政治を行うと天はそれに感応して災異を下すと主張した。陰陽と五行を直結させたのも彼であり,〈天地陰陽木火土金水の九と人を加えると十になり,十で天の数はおわる〉(《春秋繁露》天地陰陽篇)と述べている。…
…すなわち有徳者が天命を受けて天下を統治すべきであり,もし徳が衰え民心が離反するようになれば,天命はその者を去って別の有徳者にくだり,ここに易姓革命が起こることとなる。革命説は《易経》の革卦にもとづくが,武力革命を肯定した民本主義者の孟子によって理論化され,さらに《春秋公羊伝(くようでん)》によって補強され,漢代の董仲舒(とうちゆうじよ)の《春秋繁露》に至って,より完成の域に達した。【日原 利国】。…
…しかし世の中が安定し,経済が復興してくると,簡素化を信条とする道家の政治にはあきたらず,儀礼や音楽で体面をととのえ,政治に文化性を重視する儒家が,やがて歓迎されるようになった。 武帝は若くして儒教に傾倒していたが,その武帝に影響を与えたのは大儒董仲舒(とうちゆうじよ)であった。とくに董仲舒の陰陽五行説を用いた天人論は皇帝を政治のみならず倫理,宗教などの中心に仕立てる思想であり,中央集権体制の確立を目ざしていた武帝にとっては,好都合な思想であった。…
…五行の配当に関しては,《呂氏春秋》(前3世紀)などにその原初的なかたちが,そして《白虎通(びやつこつう)》(1世紀)などによりいっそう整理されたかたちがうかがわれる。また漢初の伏生の《洪範五行伝》には,《書経》洪範篇にみえる五事――貌(容貌)・言(ことば)・視(目のはたらき)・聴(耳のはたらき)・思(思考)――と庶徴――雨・暘(ちよう)(日でり)・燠(おく)(暑さ)・寒・風――が五行と関連づけてのべられ,さらに董仲舒(とうちゆうじよ)の《春秋繁露》には相克説と相生説が有機的に結合されている。このようにしていよいよ詳密となった五行の理論は陰陽の理論とともに漢代思想の一大潮流を形成した。…
…祥瑞(しようずい)の反対概念。災異を天意にもとる君主の行為に対して天がくだす警告であるとみなし,〈災異説〉(災異思想)とよばれる理論にまとめあげたのは漢の董仲舒(とうちゆうじよ)であった。すなわち,君主に失政があれば天はまず災害をくだして譴告(けんこく)をあたえ,災害によって反省しないときにはさらに人間が畜生を生むなどの怪異の現象を発生させて驚かせ,それでもまだ改めないときには国を滅ぼしてしまうというのであり,君主の無軌道な行為にたいして一定の抑制的な役割を果たした。…
…《春秋蕃露》とも書く。前漢の董仲舒の作。17巻82編。…
…この説は戦国末の鄒衍(すうえん)を首唱者として流行したが,漢代に入って儒学のうちに採用され,自然界だけでなく歴史をはじめとする人事一般の推移を説明する原理となった。前漢の大儒,董仲舒(とうちゆうじよ)はその代表者である。この陰陽五行説は永く後世に至るまで中国の哲学や科学の基礎理論となったもので,その果たした役割は大きい。…
… 上述したように,春秋戦国期には天に関する多様な見解が提出され,それらはすでに漢以後の天の思想史を先取りしている。漢代のイデオローグ董仲舒(とうちゆうじよ)は,荀子の分離した天・人をふたたび結びつけ,天人相関説(政治のよしあしに対して天が感応して禍福をくだすとする説)をとなえ,墨家的な天を復活させた。歴代の儒教は,郊祀儀礼を整備して皇帝権力につかえる一方,この天人相関説を取り入れて権力の無制限な行使に制肘を加えた。…
…中国の思想上,天(自然)と人(人事)とには対応関係があるとする説。最初に組織的に論じたのは前漢の董仲舒(とうちゆうじよ)の《春秋繁露》である。それによると,人体に大節が12あるのは1年の月数に,小節366あるのは日数に相応し,五蔵は五行(ごぎよう)に,四肢があるのは四時の数に当たり,覚めまた眠るのは昼夜に等しい。…
※「董仲舒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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