中国、前漢の武将。字(あざな)は少卿。将軍李広(りこう)の孫。若いときから騎射に巧みであった。紀元前99年、李広利(りこうり)が匈奴(きょうど)を討った際、歩兵5000人を率いて出撃し、匈奴の大軍と戦ってこれを破った。しかし、武器・食糧が尽きたうえに、匈奴の援軍に包囲され、ついに降伏した。武帝はこれを聞いて怒り、彼の母・妻子を殺そうとした。司馬遷(しばせん)は、李陵を弁護したために武帝の憤怒を買い、宮刑(去勢の刑罰)に処せられた。李陵は匈奴に降(くだ)ったのち、単于(ぜんう)の娘を妻とし、右校王(うこうおう)に封ぜられて単于の軍事・政治顧問として活躍し、モンゴル高原で病死した。李陵の奮戦、降伏の悲劇は、詩や物語として中国人の間に長く伝えられた。日本では中島敦(あつし)の『李陵』が有名。1940年、エニセイ川上流域で漢様式の宮殿の遺跡が発見され、これを李陵の邸宅とみなす学者もいるが、断定はできない。
[護 雅夫]
『護雅夫著『李陵』(1974・中央公論社)』▽『中島敦著『李陵・山月記』(新潮文庫)』
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…太初と改元されたその日,新暦が頒布された直後に,司馬遷は《史記》執筆を開始し,この新秩序成立に至るまでの人間の努力を正しく位置づけようとする。以後執筆に専念して7年目の前98年,匈奴討伐に奮戦しながら捕虜になった名将,李陵を弁護して武帝の怒りに触れ,宮刑の恥辱を受ける。恥を忍んで生き長らえ,2年後に宦官として宮廷にもどって中書令(天子の秘書長)になったのも,ただ《史記》完成への執念に支えられたからであり,その苦衷は死刑囚の友人の任安(じんあん)にあてた前91年の書簡にあふれている。…
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