改訂新版 世界大百科事典 「合理的期待形成仮説」の意味・わかりやすい解説
合理的期待形成仮説 (ごうりてききたいけいせいかせつ)
rational expectations hypothesis
経済理論に関する一つの考え方で,1970年代に入ってから,とくにアメリカの諸大学で大きな影響力をもつようになってきた。合理的期待仮説ともいう。近代経済学の基礎には,市場経済を構成する個別的な経済主体(個人)が,さまざまな制約条件のもとで,利用しうる限りの資源と情報とをできるだけ有効に使って,みずからにとって最も望ましい結果をもたらすような行動を選択するという前提が置かれている。合理的期待形成仮説はさらに一歩進んで,現在だけでなく将来の市場条件,とくに均衡市場価格について,人々がその客観的確率分布を正確に知っていて,その数学的平均値に等しくなるように期待を形成し,最適化の行動を行うという前提を仮定する。そしてこのような完全情報下の均衡状態との対比において,一般に不完全な情報しか得られないような状況での経済変動のメカニズムを解明しようとするものである。この仮説は,1961年ミュースJohn Muthの論文《Rational Expectations and the Theory of Price Movements》ではじめて定式化されたものであるが,マクロ経済分析で重要な役割を果たすようになったのは72年ルーカスRobert E.Lucas,Jr.の論文《Expectations and the Neutrality of Money》を契機としてである。
合理的期待形成仮説の考え方をマクロ経済分析に適用するとき,その最も顕著な結論は,政府がどのような経済政策をとったとしても,個々の経済主体はその帰結を的確に計算して行動するから,結果としてはなんの影響をも及ぼさなくなってしまうというものである。たとえば,財政支出をある額だけ増やし,その分だけ増税したとしよう。このとき各個人の可処分所得は減少し,消費支出もそれに伴って減少するであろう。しかし,財政支出の増加は,公共サービスの供給や社会資本の蓄積となってあらわれ,各個人が必要とする財・サービスの供給の増加となるから,各個人がこの効果を正確に計算したとすれば,消費支出の減少分は財政支出の増加分にちょうど見合っているはずであると考える。したがって,総需要額にはなんの変化もあらわれず,雇用量,国民所得,物価水準などというマクロ経済的諸変量は一定水準に保たれることになる。財政支出の増加を国債の発行によって賄うとしたら,どのような結果を生み出すであろうか。この場合にも,国債を保有する人々は将来支払われる利息を得るためであるが,国債に対する利息は,増税あるいは財政支出の減少によって賄われるはずであるから,国債の純資産価値はゼロとなってしまう。したがって国債をいくら発行しても,マクロ経済的諸変量にはなんの影響も及ぼさない。合理的期待形成仮説はこのように,経済政策が国民経済に対して実質的にはまったく影響を及ぼさないという奇妙な結論を生み出す。それは,各個人が市場の諸条件について正確な知識をもっているという仮定が置かれているからである。このような荒唐無稽な考え方がアメリカの諸大学で一種の流行のような現象を呈するようになったのは何故であろうか。それは,1960年代の後半から顕著にみられるようになったアメリカにおける経済的・社会的混乱と,それに伴う近代経済学の危機的状況という視点からみるとき明らかになるであろう。
第2次大戦後四半世紀にわたって,世界の経済学の主流をなしていたのはケインズ経済学であった。ケインズ経済学は,一方では現代資本主義に内在する不安定要因を明確にするとともに,他方では政府がどのようにして財政・金融政策を働かせれば完全雇用,物価安定,経済成長などの政策目標を達成することができるか,という処方箋を提示したのであった。しかし1960年代後半になってから,とくにアメリカ経済を中心にして起きた大混乱期を通じて,ケインズ経済学の現実的妥当性,政策的有効性が問われるようになり,その理論的基礎もまた疑問視されるようになっていった。このとき,ケインズ以前の新古典派理論(新古典派経済学)に立って,ケインズ経済学に対して活発な批判を展開したのが,いわゆるマネタリズムの考え方に立つ経済学者たちであった。その基本的な考え方は,自由放任主義に近く,政治的保守主義を経済学に移植したものであって,70年代に入ってからとくに著しくなったアメリカ社会全体の保守化,反動化の流れに沿うものであった。合理的期待形成仮説はこのような新保守主義の経済学に対して,その論理的基礎を与え,その政策的主張を演繹(えんえき)するものであって,アメリカにおける経済学研究の主流を形成するようになってきたのも,純粋に学問的な観点からではなく,その考え方がアメリカ社会の保守化の流れを反映したものであるといってもよい。
→マネタリズム
執筆者:宇沢 弘文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報