吉田郷(読み)よしだごう

日本歴史地名大系 「吉田郷」の解説

吉田郷
よしだごう

鹿児島藩の直轄外城の一。薩摩国鹿児島郡に属する。近世初頭は本城ほんじよう村・本名ほんみよう村・佐多之浦さたのうら村・宮之浦みやのうら村の四村で構成されていたが、のち佐多之浦村は東佐多浦村・西佐多浦村に分れた。元文三年(一七三八)には東佐多浦村のうち触田ふれだが割かれて重富しげとみ(現姶良町)に編入され(吉田町郷土誌)、以後領域は確定した。「薩隅日地理纂考」では周囲一〇里三町余。薩隅両国の境界上に位置し、島津氏の三州統一期には大隅への勢力拡大のための軍略拠点として重要な位置を占めた。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の九州仕置による島津義弘の知行後は島津氏、次いで藩の直轄外城として地頭支配となった。同二〇年朝鮮出兵の経費を賄うために行われた寺社領の勘落では、当地の一〇町一反余が上地となり、寺付五町七反余となった(「薩隅日寺社領注文」旧記雑録)。文禄元年(一五九二)島津歳久が豊臣氏への反抗的態度のために誅殺された際、島津義久は討手を吉田城に入れた(旧記雑録)。これはかつて当地が歳久の所領であったことにより歳久方が入城の可能性があったからと考えられている。

中世末から近世初頭にかけての地頭は不詳であるが、元亀三年(一五七二)村田越前守以下九名がみえる(「吉田神社仏閣旧跡改帳並万覚帳」伊地知家文書)


吉田郷
よしだごう

鹿児島藩外城の一。現えびの市の西部を占める。吉田の地名は多いことから真幸まさき吉田といった(三州御治世要覧)。戸数二〇〇内外の小郷にあたる(寛政六年「御地頭御初入部之次第」薩藩町方の研究)。近世後期の高位付では下位となっており、鹿児島からの道程は万治年間(一六五八―六一)以降遠方に位置づけられている(「薩摩藩万留」鹿児島県立図書館蔵)鹿児島城下からの距離は加治木かじき筋一五里、うち海路五里(「薩藩政要録」など)。郷を構成する村は「三州御治世要覧」などでは向江むかえ村・水流つる村・内竪うちたて村・亀沢かめさわ村・昌明寺しようみようじ村・岡松おかまつ村の六ヵ村。正徳三年(一七一三)頃の所惣高三千二八二石余(藤井本「要用集抄」)。宝暦二年(一七五二)には三千三八五石余(「万御規換書抜」日向国史)。「三州御治世要覧」でも同高。「薩藩政要録」では所惣高三千六〇四石余。


吉田郷
よしだごう

現益田市中須なかず町・中島なかのしま町・中吉田なかよしだ町・須子すこ町地域にあった、長野ながの庄を構成する内部の所領単位。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文には長野庄の一部として「よした 五十丁五反六十卜」とみえ、長野庄の所領単位としては最大の面積を占めていた。これ以外に鎌倉期の史料はなく、支配関係は不明だが、暦応四年(一三四一)七月日の内田熊若代藤原兼家軍忠状(思文閣古書目録)によると、幕府軍が前年以来吉田郷内の須子に陣取って豊田とよた城とともに吉田宮尾之みやおの城を攻撃しており、南北朝動乱の前半において、吉田郷は南朝方の勢力下に置かれていたと推定される。一方、暦応三年三月二九日には、下俣賀しもまたが村地頭内田円戒後家光阿跡の須子村内田屋敷が上俣賀村地頭内田致義に与えられているが(「上野頼兼安堵書下」俣賀文書)、康永三年(一三四四)には覚融庵主による押妨が起こっている(同年二月二五日「上野頼兼書下写」同文書)


吉田郷
よしだごう

現上吉田・下吉田を遺称地として一帯に比定される。郷域は荒川支流吉田川流域の山間部にあたる。天暦三年(九四九)三月の武蔵秩父郡司解(薩摩沖利雄氏所蔵風塵集所収平姓伊地知系図)に「吉田名」とみえる。同解によれば秩父郡吉田名七一八町五段と同清見保八九三町八段二五〇歩はもと「荒廃無主田」であったが、藤原良房が武蔵守であった天長年間(八二四―八三四)に開墾されて「家相伝之私田」となり、承平年間(九三一―九三八)には藤原忠平の家領、次いで天暦二年以来、藤原師輔の家領になったという。


吉田郷
きつたごう

武儀むぎ郡に所在した中世の郷名。現関市の新長谷しんちようこく寺を中心とした一帯に比定される。同寺蔵の貞治二年(一三六三)七月七日の年紀のある梵鐘陰刻銘に「美濃国武義庄吉田郷新長谷寺」とみえ、当郷も武儀庄を構成する一郷であったらしい。応永一〇年(一四〇三)には佐々木高光が吉田郷鋳物師いもじ鞍智くらち小簗おやな等の諸公事・臨時課役・国役を免除され、守護使入部が停止された(同年二月二八日「足利義満袖判御教書案」佐々木文書)。長享二年(一四八八)四月二五日の室町幕府奉行人連署奉書案(同文書)によれば、佐々木大膳大夫(京極政経)に吉田郷鋳物師屋などに対する守護押領を排除し、従来どおりの領知が認められており、室町期には飛騨国などの守護であった京極佐々木氏の支配下にあった。


吉田郷
よしだごう

吉田御園およびその周辺は戦国期にはしばしば吉田、または吉田郷とよばれている。弘治元年(一五五五)一〇月の今川義元寄進状には「参州吉田郷盛源寺」、永禄四年(一五六一)七月の今川氏真宛行状(以上吉田名蹤綜録)に「参州渥美郡吉田郷喜見寺」、同八年七月の戸田成次寄進状(東観音寺文書)に「吉田之郷吉祥院」などとある。盛源せいげん寺・喜見きけん寺・吉祥きちじよう院などは、いずれも現市域の中心部に比定される。


吉田郷
よしだごう

和名抄」に「吉田」と記され、訓を欠く。正倉院宝物の白布に天平勝宝四年(七五二)一〇月として「常陸国那賀郡吉田郷戸主君子部忍麿戸君子部真石調布壱端」と、当郷からの貢調が記される。藤原宮出土木簡には「吉田里」とある。また「将門記」天慶三年(九四〇)の記事や仁平元年(一一五一)四月八日の常陸国留守所下文写(吉田神社文書)などに「吉田郡」とあり(水戸市の→吉田郡、「吾妻鏡」建暦二年(一二一二)六月一五日条に「吉田庄」とある。


吉田郷
よしだごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「吉田」と記し、高山寺本のみ「与之多」と訓ずる。「日本地理志料」は「吉田郷、領吉田、石田、広江、北川、妙口、大郷六邑」と記す。「国史辞典」は、中山なかやま川の左岸、井出いで郷に接するとして、現東予とうよ市吉田に比定し、さらに「延喜式の周布駅は吉田郷の西北に接する今の周布村大字周布に当り、本郡の郡家及び延喜式の桑村郡周敷神社も亦この地である」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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