長野庄(読み)ながののしよう

日本歴史地名大系 「長野庄」の解説

長野庄
ながののしよう

現益田市の高津川西岸一帯と東岸の一部に及ぶ地域に所在した庄園。「和名抄」の美濃郡小野おの郷・大農おおの郷・美濃郷益田郷の一部を合せるかたちで成立した。建長八年(一二五六)九月二九日の崇徳院御影堂領目録(門葉記)に、後白河法皇建立の粟田あわた宮社領の一つとしてみえる。粟田宮崇徳上皇の除霊のために建立された神社であるため、従来は益田庄邇摩にま大家おおえ庄とともに、崇徳皇后皇嘉門院の生家九条家が領家であったと考えられていたが、益田庄・大家庄と異なり九条家領であることを示す史料に欠け、建立者である後白河法皇が自らの所領を粟田宮に寄進したと考えることもできる。元暦二年(一一八五)六月日の源義経下文案(益田家文書、以下断りのない限り同文書)に益田兼高の所領の一つとして「仲野庄内得屋郷」がみえるが、同元年一一月二五日の源頼範下文案にも益田兼栄・兼高父子の所領として長野庄内の所領単位である「飯多郷」「得屋」「安富」「高津」がみえ、建仁三年(一二〇三)一二月日の益田兼季解状案にも益田兼季領として「長野庄内飯多郷・得屋郷」がみえるが、以上の三通は南北朝期に作成された偽文書との評価もある。

貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「なかのゝしやう 百八十八丁五反百七十卜」とみえるのが確実な初見史料である。そこには、長野庄を構成する所領単位として、豊田とよた郷・飯田いいだ郷・安富やすとみ名・得屋とくや郷・角井つのい郷・吉田よしだ郷・高津郷美濃地みのじ黒谷くろだに白上しらかみ郷・市原いちはら郷がみえる。同年五月二五日の関東下知状案によると、掃部助仲広が「長野庄内飯多郷地頭職」の安堵を求めて当知行人である益田兼季との間に訴訟を起こしたが、兼季まで三代の知行を仲広側が認め、かつ兼季が何度も地頭としての地位を安堵されていることにより、仲広の非論が停止されている。承久の乱後の混乱があったとはいえ、長野庄内飯田(飯多)郷に対する益田氏の権利がそれほど強固でなかったことをうかがわせる。すなわち益田氏による飯田郷支配は益田庄とは異なり、源平争乱の恩賞として益田兼栄・兼高父子が獲得して以来(兼季を含めて三代)と思われる。益田氏により開発と寄進が行われた益田庄とは状況が異なっていた。延応元年(一二三九)九月三日、長野庄内美濃地黒谷郷について、地頭が年貢を未進したためか、年貢納入を惣政所の責任で行うようにとの命令が領家から出されている(某下文案)。美濃地・黒谷は承久の乱の恩賞として、相模国御家人菖蒲(波多野)真盛に与えられている。

長野庄
ながののしよう

現長野を中心に川付かわつき白糸しらいとを含む一帯に比定される宇美うみ八幡宮(現宇美町)領の庄園。永野庄ともみえる。同宮を支配下に置いた山城石清水いわしみず八幡宮別当家の田中坊に相伝された。庄内には宇美(長野)八幡宮、小蔵おぐら(現廃寺)があった。「本朝世紀」久安五年(一一四九)一二月一九日条に「宇美宮三昧堂領長野庄」とみえ、当庄をめぐって宮内卿源時俊が石清水権別当厳清を訴えたが却下されている。厳清死去の後、妻紀太子が保元二年(一一五七)に兄弟の勝清(田中家祖)に譲与し、勝清の子慶清へと伝領された。しかし勝清の弟成清(善法寺家祖)は当庄などを保元四年三月に紀太子より譲り受けたが勝清・慶清が押領したと主張したため、治承元年(一一七七)慶清は訴え、翌年認められた(同二年六月一二日「後白河院庁下文案」石清水文書/平安遺文八など、以下断りのない限り同文書)

長野庄
ながののしよう

「和名抄」の玖珠郡永野ながの郷に成立したとみられる庄園。比定地は現玖珠町塚脇つかわき長野原ながのばるが残るのでこれを含む一帯とすることも可能であるが、史料上は塚脇は古後こご郷内に確認できるので、確定しがたい。なお長野本庄・長野新庄と玖珠庄の関係が明確ではなく、玖珠庄の実態は長野庄であり、領有の意図または混乱から、玖珠郡の在地動向とは別に本家・領家の側で目録類にその庄名を用いたにすぎないのかもしれない。その領域は古後郷・山田やまだ郷・帆足ほあし郷を含むと考えられ、その点ではいわゆる郡庄であり、それらが史料作成の段階に応じて玖珠庄とも長野庄とも表記されたのであろう。

長野庄
ながののしよう

京都法成寺領の庄園で、近世の長野村辺りの地にあったとみられる。建久七年(一一九六)六月二五日の天野遠景請文案(金剛寺文書)に「長野御庄内天野谷」とあり、天野あまの谷も含んでいた(→天野。「勘仲記」弘安五年(一二八二)正月二四日条に「参殿下申神供用途散状、以修正米已下被成此定了、長野庄法咒師供料、(中略)以用途被召了」とみえるのは、摂渡庄目録にみえる法成寺領河内国長野庄のことと考えられる。嘉元三年(一三〇五)頃の同目録(九条家文書)には「多武峯長野庄 田五十六町 米二十石」とある。

長野庄
ながののしよう

現小倉南区にあった庄園。「宇佐大鏡」は「東限多原野 南限山 西限牟礼浦 北限大道」を四至とする。同書によれば、長野は大安おおやす名という大宰府領であったが、永保年中(一〇八一―八四)大宰帥藤原資仲のとき一切経会料所として当所の佃一一町・所当六五石が宇佐宮に寄進され、保延六年(一一四〇)大宰権帥藤原顕頼より金剛般若経転読の仏聖灯油供料として当所の水田が不輸の神領として宇佐宮に寄進されて成立。鎌倉期成立の宇佐宮年中行事案(到津文書/大分県史料三〇)によると、毎年三月一日の宇佐宮一切経会に当庄より供米六五石が収納されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報