向井村(読み)むかいむら

日本歴史地名大系 「向井村」の解説

向井村
むかいむら

[現在地名]松原市北新きたしん町一―二丁目・東新ひがししん町一―三丁目

西除にしよけ川が村の西部を北流し、北はほり村。地形は平坦。東方に条里制の遺構がよく残り、すぐ南を東西に通る長尾街道はほぼ古代の大津道にあたると思われ、「続日本後紀」承和八年(八四一)閏九月一四日条に「以河内国丹比郡駅家院倉八宇屋二宇、遷建当郡日根野、為正倉」とみえる駅は、当地付近にあったと推測される。また、延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に載る丹北郡矢田やた庄の田地所在地のうち、「北参条駅家里拾玖坪陸段」は大津道に面した当村域にあったと思われる。当地一帯は古来布忍ぬのせとよばれたが、「新撰姓氏録」(河内国皇別)にみえる布忍首の本拠地と考えられる。


向井村
むかいむら

大和川下流左岸、現堺市の北端中央部辺りにあった。「蔗軒日録」文明一六年(一四八四)四月一日条に「ムカイト云処ニ有仁徳天皇御廟」とみえ、仁徳天皇陵に治定される大仙だいせん古墳をその村域に含んでいたようである。向村とも書く。

建保七年(一二一九)四月、向井二郎入道なる人物が開口あぐち神社神宮寺の念仏ねんぶつ寺に乃米一〇〇石・馬五疋などを堂供養の布施物として寄進している(同年四月「念仏寺堂供養布施等注文」開口神社文書)。文永九年(一二七二)一〇月六日付の和泉国御家人大番役支配状案(和田文書)に向佐渡入道の名がみえ、同支配状に記載される御家人中最大の四六町五反の田地を有し、兵士一八人を引連れて中御門大番篝屋での番役を一〇月一四日より一七日まで勤めることを命ぜられている。「大阪府全志」では建武元年(一三三四)頃、向井村が永福門院領であったとする。嘉慶二年(一三八八)三月、向井住人夜叉次郎・二王次郎らが住吉社(現住吉区)御油神人と号して荏胡麻油などの新儀交易を行ったとして離宮りきゆう八幡宮(現京都府乙訓郡大山崎町)の油座神人より訴えられ、このため和泉守護山名氏清によって油木を破却させられている(同月五日「和泉守護山名氏清奉行人連署奉書」離宮八幡宮文書)。康応元年(一三八九)一一月、野遠屋周阿弥陀仏は念仏寺に如法経四要品料田として「向井石丸名」の田地二反を寄進している。その在所は「和泉国大鳥郡土師下条下村里」一五坪と二二坪にあった(同月一四日「野遠屋周阿弥陀仏田地寄進状」開口神社文書)


向井村
むかいむら

[現在地名]篠山市向井

篠山城下の東方にあり、当地で篠山川上流の籾井もみい川と大芋おくも川が合流する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「向村」とみえ、高九三石余。正保郷帳でも向村として田高一三一石余・畠高一四石余。寛文四年(一六六四)の松平康信領知朱印状(寛文朱印留)では向井村とする。「丹波志」では草上くさのかみ(村雲庄)のうちで、高二四五石余。


向井村
むかいむら

[現在地名]尾鷲市向井

尾鷲湾の南西岸にあり、八鬼やき山北麓に開けた扇状台地にある。「神鳳鈔」記載の「村嶋」が、向井の古名であるといわれる。応永四年(一三九七)仁木義長の子の長宗は武功によりむかい庄を与えられ、姓を向井と改めたと伝える(同家系図)

慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「向村」と記される。「紀伊続風土記」に「海辺なれとも村民漁をなさす、山稼き田畑を専にす、此入海の北岸の水地浦は尾鷲総村の本郷にて海湾の北にあり、此浦南にありて、それに向へる地なるより、向ひの義なるを井の字をそへて書来れるなるへし」とある。


向井村
むかいむら

[現在地名]西区平野町向井ひらのちようむかい春日台かすがだい三―四丁目・同六―七丁目

明石川の左岸に位置し、南は芝崎しばさき村。慶長国絵図に「むかい村」とある。正保郷帳に村名がみえ、田方一四五石余・畑方四四石余、芝山あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西一町四〇間・南北一町六間、人数一四二・家数二四。郷蔵・池五・小藪三・自分山五・砂留山。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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