中国,唐の画家。生没年不明。陽翟(河南禹県)の人。初名を道子といい,のち道玄と改めた。呉道子の名でも知られる。伝記は朱景玄《唐朝名画録》と張彦遠(ちようげんえん)《歴代名画記》とでかなり異同がみられる。いま後者に従うと,初め兗(えん)州瑕丘県(山東滋陽)の県尉となり,次いで韋嗣立(654-719)に仕えて小吏となったが,時の玄宗皇帝に禁中に召されて内教博士を授けられ,もっぱら天子の詔勅によって画を制作した。そして最後は,玄宗の兄に当たる寧王(679-741)の友の官に至った。画は天賦の才に恵まれて,20歳に達しないとき,すでに妙を極めたといわれ,人物,仏像,鬼神,禽獣,山水,台館,草木の広範囲にわたり,秀でないものはなかった。なかでも道釈画を最も得意として精力的に筆をふるい,長安,洛陽の道観寺院の壁画は,延べ300余間にも達した。また山水画は,蜀道嘉陵江の山水をたった一日でかいたことが有名であるが,六朝以来の不合理な画法を改めたいわゆる唐代山水画の変は,呉道玄に始まるといわれる。その結果,唐朝第一の画家はもちろん,顧愷之,陸探微にも勝る画聖とまで称された。活躍の時期は,則天武后時代(690-704),韋嗣立の小吏として蜀道山水を写し,749年(天宝8),洛陽の玄元皇帝廟に《五聖図》を制作するまで,およそ50年間とみるのが妥当である。
画風は,張僧繇(ちようそうよう)の後身といわれるように,初め六朝以来の流暢な描線を基本にかき,のちに壁画などの大画面にふさわしい筆力勇壮な躍動する描線を編み出した。この意気さかんな画法は,同時代の張旭(ちようきよく)の書や将軍裴旻(はいびん)の剣の舞をみて学びとったという。彼の道釈人物画にみられる呉帯当風という衣の描法も,この躍動飛揚する画法をさしたものにほかならない。そしてこの画風は後世に大きな影響を及ぼし,弟子に翟琰(てきえん),盧稜伽などを出したほか,少なくとも五代・北宋初期まで,人物画の主流を形成し,朱瑶,王瓘,王靄(おうあい),武宋元などがその一派にかぞえられる。
執筆者:曾布川 寛
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生没年不詳。中国、唐代、玄宗時代(712~756)の画家。字(あざな)は道子(どうし)、陽翟(ようてき)(河南省禹(う)県)の人である。初め韋嗣立(いしりつ)に仕えたが、玄宗に画才を認められて内教博士となり、のち玄宗の兄寧王憲(ねいおうけん)の友として遇された。山水、鬼神、人物、花鳥、いずれにも巧みだったが、彼の画風の特徴は速描きで、事物をよく観察したのち一気呵成(かせい)に仕上げるのが常であった。玄宗の命を受けて、李思訓(りしくん)とともに興慶宮(こうけいきゅう)の大同殿に、『蜀道嘉陵江(しょくどうかりょうこう)三百余里』の山水図を描いたが、道玄が1日で完成したのに対して、細密画の得意な思訓は数か月を要した。玄宗はともに妙絶をたたえたという。また、将軍斐旻(はいびん)の剣舞の神出鬼没な早業をみて筆を振るったという話も同様の逸話であろう。また多くの門弟を率いて、長安や洛陽(らくよう)などの仏寺や道観の壁画を請け負い、存分の腕を振るったが、この天才画家の出現によって、従来の絵画は一変したと伝えられる。道玄の真跡は今日なに一つ残っていないが、洛陽敬愛寺西禅院西廊の壁画(722)、玄宗の泰山封禅の際に描いた金橋図(725)、洛陽玄元皇帝廟(びょう)の五聖図(749)などに関する記録から、およその活躍時期を知ることができる。
[吉村 怜]
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生没年不詳
唐中期の画家。陽翟(ようたく)(河南省禹県)の人。小官吏であったが,玄宗に仕え,人物,鬼神,山水など,あらゆる画題をよくし,寺観の壁画を多く描いた。六朝(りくちょう)風の描線を脱し,立体感を表す画法を創始した。
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… 唐代は,初期に李嗣真《続画品録》,張懐瓘《画断》などが著され,六朝に引き続いて優劣を問題とした《画断》は顧愷之を頂点に,神・妙・能の三品に分けたが,後期の朱景玄《唐朝名画録》に至ると,時流を反映し,常法にこだわらない逸品をこれに加えた。また張彦遠《歴代名画記》は,画史の最初の正史として,これまでの絵画史を時代順に系統的にまとめるとともに,唐の呉道玄を最も高く評価し,意気もしくは生気の芸術論を展開した。五代,宋代は,郭若虚《図画見聞誌》,鄧椿《画継》が,《歴代名画記》の後をうけ,輝かしい一時期を画した当代の絵画を記述するほか,劉道醇《五代名画補遺》《聖朝名画評》も部門別に品評する。…
…浄土変が《阿弥陀経》《観無量寿経》,降魔変(ごうまへん)が《仏本行経》などとおのおのが拠った経典があるのに対し,地獄変は十八地獄などの観念によって描かれたとされる。唐の長安の諸寺院の壁に地獄変が描かれていたことは,張彦遠《歴代名画記》に詳しく,中でも呉道玄(道子)の描く地獄変がリアルに地獄を写して人々を恐れさせたことが《酉陽雑俎(ゆうようざつそ)》などの記録に見える。【小南 一郎】。…
…六朝に顧愷之(こがいし),陸探微,張僧繇(ちようそうよう)らが道釈画家として輩出したのは,老荘思想や仏教の流行と呼応するが,彼らは同時に人物画の名手でもあった。唐代には呉道玄が出現し,唐都長安,洛陽のおもな寺観でほとんど独占的な制作を行った。彼の様式は後世,道釈画風の古典として仰がれるようになった。…
…広義には下がき,素描などの未完成品や粉本なども含まれるが,本格的な白描画は色彩をともなわず,あくまで筆線のみで完成された作品をさす。
[中国]
白描画の伝統は古いが,六朝・晋の書画兼善の文人の描いたそれが一つの規範となり,盛唐の呉道玄(道子)がこれを復興させたと考えられる。これらの白描画は筆の機能を生かすという点で,書法と深く結びつく。…
…画は山水・樹石を得意とし,その青緑の着色山水画をもって,後世の南北宗論において,北宗(ほくしゆう)の始祖とされた。ただ朱景玄の《唐朝名画録》に,天宝年間(742‐755)玄宗の命により呉道玄とともに蜀道嘉陵江三百余里の山水を大同殿にかき,李思訓は数ヵ月かけ,呉道玄はたった1月で完成させたとあるが,このことは李思訓の没年からみてありえず,天宝年間は開元年間の誤りかと推測される。またこれによって両大家の作風の相違をみることができる。…
…伝説の軒轅(けんえん)時代から841年(会昌1)までの絵画について記した最初の本格的画史書で,《図画見聞志(とがけんぶんし)》以下の後世画史の範となった。前3巻は通論に当たり,絵画の源流,興廃,六法,山水樹石,師資伝授,顧愷之(こがいし)・陸探微・張僧繇(ちようそうよう)・呉道玄の四大家の用筆,品第,鑑識,表装などについて述べ,さらに当時の長安と洛陽の寺院道観の壁画を記録する。また後7巻は画人伝で,史皇から王黙にいたる373人の画家について時代を追って記す。…
※「呉道玄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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