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周瑜 しゅうゆZhou Yu; Chou Yü

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

周瑜
しゅうゆ
Zhou Yu; Chou Yü

[生]嘉平4(175)
[没]建安15(210)
中国,三国時代武将。字は公瑾。廬江 (安徽省) の人。早くから孫氏に従った。建安 13 (208) 年,華北をほぼ平定した曹操が南下しようとした際,呉では降伏論が盛んであったが,瑜は戦いを主張し,軍を率いて曹操の大軍赤壁で破った (→赤壁の戦い ) 。さらに逃げるのを追って南郡を平定し,南郡太守に任じられた。のち孫権益州 (四川) 攻略の計を献じていれられたが,事が進まないうちに病に倒れた。

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デジタル大辞泉の解説

しゅう‐ゆ〔シウ‐〕【周瑜】

[175~210]中国、三国時代のの武将。字(あざな)は公瑾(こうきん)。廬江舒(安徽(あんき)省)の人。孫権に従い、赤壁の戦い曹操の大軍を破った。

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大辞林 第三版の解説

しゅうゆ【周瑜】

175~210) 中国、三国時代の呉の武将。字あざなは公瑾。孫権を助け呉の建国の基礎を築いた。208年赤壁の戦いで曹操を破ったが、四川攻略直前に病死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

周瑜
しゅうゆ
(175―210)

中国、三国呉(ご)の功臣。字(あざな)は公瑾(こうきん)。廬江舒(ろこうじょ)(安徽(あんき)省舒城県)の人。呉の建国者孫権の父孫堅(そんけん)が董卓(とうたく)討伐の義兵をおこすと、これに従った。周瑜は同じ年齢の孫堅の子孫策とは兄弟同様の親交があり、協力して江東地区の掌握に努めた。孫策の弟の孫権がたつと、張昭とともに補佐し、呉国建国の基礎を築いた。208年、魏(ぎ)の曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)北部を併合すると、呉では降服論が大勢を占めていたが、周瑜はひとり主戦論を唱え、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)と同盟を結び、赤壁で曹操の軍船を焼討ちして、魏軍を敗退させた。周瑜はまた荊州における劉備の勢力拡大を警戒し、巴蜀(はしょく)の領有を進言したが、四川(しせん)攻略を前にして病死した。[上田早苗]

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