蔦屋重三郎(読み)ツタヤジュウザブロウ

デジタル大辞泉 「蔦屋重三郎」の意味・読み・例文・類語

つたや‐じゅうざぶろう〔‐ヂユウザブラウ〕【蔦屋重三郎】

[1750~1797]江戸後期の出版業者。江戸の人。本名喜多川柯理からまる。号、耕書堂。通称蔦重つたじゅう狂名蔦唐丸つたのからまる大田南畝山東京伝らと親交があり、多くの洒落本黄表紙ほか東洲斎写楽喜多川歌麿らの浮世絵版画も出版した。

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精選版 日本国語大辞典 「蔦屋重三郎」の意味・読み・例文・類語

つたや‐じゅうざぶろう‥ヂュウザブラウ【蔦屋重三郎】

  1. 江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。本名北川柯理。通称蔦重(つたじゅう)。狂名蔦唐丸(つたのからまる)蜀山人、京伝らと親交があり、洒落本・黄表紙などを次々と出版。また、写楽・歌麿らの浮世絵版画の版元として、天明・寛政期(一七八一‐一八〇一)の江戸文化に指導的役割を果たした。寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七

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朝日日本歴史人物事典 「蔦屋重三郎」の解説

蔦屋重三郎

没年:寛政9.5.6(1797.5.31)
生年:寛延3.1.7(1750.2.13)
江戸中期の書物・地本問屋。父は尾張の人丸山重助,母は津与。喜多川氏に養われる。名は柯理。号耕書堂,薜羅館。蔦唐丸の筆名で狂歌,戯作の作もある。江戸新吉原に出生。長じて新吉原五十間道で貸本,小売を主体とする本屋耕書堂を開業,安永4(1775)年から鱗形屋孫兵衛版『吉原細見』の改め・卸を手掛ける一方,地縁を背景に,灯籠番付や俄の絵本などの吉原関係の草紙を主体とした出版を始める。5年秋からは自版の『吉原細見』を刊行,以後富本正本,稽古本,往来物,流行の戯作類と次第に出版の内容を広げ,天明3(1783)年9月には通油町に進出する。これより先,当時の狂歌・戯作界の中心的人物大田南畝の知遇を得てより,流行の狂歌を媒介として結集し始める狂歌・戯作壇の連中と親交を深める。 同年,南畝編『万載狂歌集』刊行を契機として江戸狂歌流行が爆発的な流行をみるや,自ら狂歌師となって狂歌の集まりに積極的に参加,狂歌師・戯作者の活動の場をお膳立てすることによって作品の出版を独占的に手がけ,天明期戯作・狂歌の最良の部分を世に送り出すことになる。それまで中心的,指導的な立場にあった人間たちの熱が冷め,狂歌・戯作壇が徐々に停滞の兆しを見せ始める天明末から寛政初めにかけては,板元主導の態勢を強化していくが,寛政改革の余波による有力作者の退陣はその傾向に一層拍車をかけた。書物問屋に加入し,営業内容の多角化を図るのもこのころである。寛政3(1791)年刊山東京伝作洒落本三部出版が時の風俗矯正政策に抵触し,咎めを受けて財産半減の処分を受ける。寛政中・後期,戯作や狂歌本の出版においては,進取の気に富むものに乏しいが,寛政6年から7年にかけ,東洲斎写楽の錦絵を140点余刊行するなど,錦絵や書物系統の書籍の出版などに注目すべき仕事も多い。当時を代表する錦絵や草紙類を世に出したというだけではなく,文芸の史的展開に深く関与したという点でも注目すべき板元であろう。<参考文献>鈴木俊幸「狂歌界の動向と蔦屋重三郎」(『江戸文学』6号)

(鈴木俊幸)

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百科事典マイペディア 「蔦屋重三郎」の意味・わかりやすい解説

蔦屋重三郎【つたやじゅうざぶろう】

江戸時代の代表的な出版業者。江戸吉原生れ。細見(遊郭案内)の販売をへて,1774年《一目千本花すまひ》(北尾重政画)を初めて版元として刊行。のち日本橋通油町に店を構え田沼時代の開放的な気風の中で出版業隆盛の一翼を担った。作家では大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴など,浮世絵師では喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽などと組み,数々の話題作を手がけた。

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改訂新版 世界大百科事典 「蔦屋重三郎」の意味・わかりやすい解説

蔦屋重三郎 (つたやじゅうざぶろう)
生没年:1750-97(寛延3-寛政9)

須原屋市兵衛と並ぶ江戸時代の代表的な出版業者。蔦重と俗称される。江戸吉原に生まれ,喜多川氏の養子となる。初め吉原大門外の五十間道に店を開き,細見(さいけん)(遊郭案内)を売っていたが,1774年(安永3)に初めて版元として《一目千本花すまひ》(北尾重政画)を出した。その後,日本橋通油町に店を構え,いわゆる田沼時代の開放的な世情を背景とする江戸出版業の隆盛の一翼を担う。商才は鋭敏,気骨も充溢した人物で,多くの文人墨客,戯作者,絵師と交友をもち,世話をした。作家では大田南畝,恋川春町,山東京伝,曲亭馬琴など,浮世絵師では北尾重政,鍬形蕙斎,喜多川歌麿,葛飾北斎,東洲斎写楽などと組んで,黄表紙,洒落本,狂歌絵本,浮世絵版画の評判作を相次いで出版し,天明後期から寛政中期の江戸の文化界をまさに席巻した。寛政改革に伴う出版取締令でとがめをうけ,財産の半分を没収されるが,その反骨精神は没するまで続いた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔦屋重三郎」の意味・わかりやすい解説

蔦屋重三郎
つたやじゅうざぶろう
(1750―1797)

江戸後期の江戸の出版業者。本姓は喜多川、名は珂理(からまる)、重三郎は通称で、狂歌名を蔦唐丸(つたからまる)といい、屋号を蔦屋、耕書堂といった。商標は富士山形に蔦の葉。安永(あんえい)年間(1772~1781)初めころ吉原大門口で細見屋(さいけんや)を開業、1783年(天明3)には通油町(とおりあぶらまち)に進出して地本問屋(じほんといや)となる。時代の嗜好(しこう)を適切に読み取る企画力に優れ、さらに大田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))、山東京伝ら一流の狂歌師、戯作者(げさくしゃ)の協力を得て、草双紙、絵本、狂歌本類の名作を次々と出版、かたわら錦絵(にしきえ)の版行にも意欲をみせた。新人発掘の名人で、曲亭馬琴(きょくていばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)のほか、美人画の喜多川歌麿(うたまろ)、役者絵の東洲斎(とうしゅうさい)写楽など多くの逸材を世に送り出している。1791年(寛政3)山東京伝の洒落本(しゃれぼん)を出版した科(とが)で身代半減の刑を受けており、幕府が出版統制の見せしめとして槍玉(やりだま)にあげるほど、江戸一流の版元として実績を残した。没後番頭の勇助が2代目を継ぎ、明治初めの5代目まで続いた。

[小林 忠]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「蔦屋重三郎」の解説

蔦屋重三郎
つたやじゅうざぶろう

1750.1.7~97.5.6

江戸中・後期の江戸の書肆。本姓丸山,喜多川氏をつぐ。号は耕書堂・薜蘿館(へきらかん)・蔦唐丸(つたのからまる)など。江戸生れ。吉原五十間道東側に住み,吉原細見の版元だったが,のち通油町南側中程へ転居した。浮世絵や江戸小説の出版が時好にかない,江戸で一,二を争う地本(じほん)(江戸版の書物)問屋となった。戯作者や浮世絵師の庇護者で,東洲斎写楽の浮世絵もすべてこの版元から出ている。1791年(寛政3)幕府の風俗取締りにより家財半減の処分をうけた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蔦屋重三郎」の解説

蔦屋重三郎 つたや-じゅうざぶろう

1750-1797 江戸時代中期-後期の版元。
寛延3年1月7日生まれ。喜多川氏(蔦屋)の養子。江戸新吉原で細見(さいけん)(案内書)をうる。天明3年日本橋通油(とおりあぶら)町に書店をひらき,大田南畝(なんぽ),山東京伝らの作家,喜多川歌麿,葛飾(かつしか)北斎,東洲斎写楽らの浮世絵師とくんで黄表紙,洒落(しゃれ)本,浮世絵版画などを出版した。寛政9年5月6日死去。48歳。江戸出身。本姓は丸山。名は柯理(からまる)。号は耕書堂。

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367日誕生日大事典 「蔦屋重三郎」の解説

蔦屋重三郎 (つたやじゅうざぶろう)

生年月日:1750年1月7日
江戸時代中期の書物・地本問屋
1797年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の蔦屋重三郎の言及

【寛政改革】より

…これと同時に出版統制令を発し,風俗をみだす好色本類や,政治批判を内容とする出版物を禁じた。事実,洒落本作家の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は,この出版統制令違反で処罰された。寛政期は対外緊張が高まった時期でもある。…

【東洲斎写楽】より

…ところが近年〈写楽斎〉と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺に居住していたことが知られるようになり(《諸家人名江戸方角分》),旧説への関心が高まりつつある。ともあれ写楽の役者絵,相撲絵は,すべて蔦屋重三郎(蔦重)を版元として刊行されており,喜多川歌麿や十返舎一九を育てたと同じように,蔦重の炯眼なればこそ発掘し得た異色の新人であった。その作風は,写実的な役者絵表現の基本を勝川派に学び,これに流光斎など上方絵の作風も参考として,役者の似顔と演技の特徴とを大胆に,印象深くとらえるものであった。…

【本】より

…それが江戸の吉原,深川などを舞台にとるようになると,真価を発揮して通を誇り野暮(やぼ)をくさす文学に一変した。その最盛期に当時最高の作者山東京伝と新進大出版家蔦屋(つたや)重三郎が禁圧の対象となった。1791年(寛政3)京伝は蔦重(つたじゆう)から金1両余の前借りで洒落本《仕懸(しかけ)文庫》《娼妓絹篩(きぬぶるい)》《錦之裏》を出すが,松平定信の禁令にかかり,作者,書店ともに立ち直れないほどの厳罰を被った。…

【本屋】より

…江戸ははじめ上方有力本屋の出店が多かったが,18世紀後半から江戸で成長した本屋が活躍した。《武鑑》や江戸地図,さらに漢学・蘭学の本を出した須原屋茂兵衛とその一門,歌麿や写楽の浮世絵を刊行し,黄表紙にベストセラーを出した蔦屋重三郎(つたやじゆうざぶろう)など特色ある本屋が現れた。江戸の本屋は19世紀初めで80軒ほどであった。…

※「蔦屋重三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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