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浮世絵版画の版様式。1765年(明和2)に江戸で大流行した絵暦(えごよみ)交換会を機に飛躍的に進歩した多色摺(ずり)木版画をさし、初期の三色程度の多色摺は紅摺絵(べにずりえ)とよんで区別する。錦のように美麗な絵の意味であるが、当時おもに上方(かみがた)で押し絵を錦絵とよんでいたことから、それと区別し対抗する意図で東(あずま)(吾妻)錦絵と命名されたらしい。まもなく単に錦絵ともよばれるようになった。錦絵は、下絵を描く絵師と、彫師、摺師、版元、さらに好事家(こうずか)の協力による所産であるが、絵師では鈴木春信(はるのぶ)がもっとも深く関与し貢献したため、彼を創始者とすることもある。以後、その優れた色彩美と表現力によって急速に発展普及し、1780年(安永9)ごろ以降は錦絵以外の浮世絵版画はほとんど制作されなくなり、江戸後期から明治期には、浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となった。技法上も種々の改良やくふうが加えられて、19世紀に入ると数十色もの色版を使ったものも現れて、幕末にはその極限に達した。
[浅野秀剛]
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数色から十数色までを重ねた多色摺浮世絵版画。錦のように美麗な色合いが名の由来。1765年(明和2)江戸の趣味人の間で絵暦とよばれる私製版画の制作が流行。鈴木春信を中心としたグループのなかで,多色摺の技術が飛躍的に進歩して錦絵が完成した。当時は吾妻錦絵(あずまにしきえ)ともよばれた。浮世絵版画の到達した最終的な段階であり,以後,浮世絵版画の中心的な技法として明治初期まで及んだ。
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…有名人の死没の直後にその肖像を描き,生前の事跡や辞世の和歌や句を記して追悼の意を表した死絵(しにえ),安政2年(1855)の大地震の直後に表れた鯰絵(なまずえ),あるいは開港後の新開地横浜の様子を伝える横浜絵などは,そうしたニュース性を強く織り込んだ浮世絵版画の例である。明治年間に入って一時期盛行した彩色摺の絵入り新聞すなわち〈錦絵新聞〉なども,浮世絵が本来備えていた時事報道の機能を,時代の要請に応えて一段と強化し,発揮させたものにほかならなかった。
【形式】
浮世絵の主たる表現形式は終始木版画であり,肉筆画は従の関係にあった。…
…
[美術の大衆化]
同じころ江戸では,師宣にはじまる浮世絵が,墨摺りの手法を《芥子園画伝》の挿図に見るような中国の色刷り手法をヒントに彩色版画の方向へと発展させる。それは手彩色による丹絵(たんえ)から漆絵を経て紅摺(べにずり)絵へと進み,明和年間(1764‐72)鈴木春信によって錦絵が考案された。優美な王朝やまと絵の世界を江戸市民の日常生活の中に見立てた春信の錦絵によって浮世絵版画の芸術性は高まり,江戸浮世絵界は天明から寛政(1781‐1801)にかけて,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽らを輩出して黄金時代を迎えた。…
… 画像による伝達と言語による伝達は互いに機能特性が異なり,そのため古くから言語を補う意味で,新聞などの印刷媒体には挿絵(イラストレーション)が利用されていた。1872年(明治5)に発刊した日刊紙《東京日日新聞》でも錦絵が使われていたという。この時点ではすでに写真は実用化していたのだから,その新聞への利用も当然考えられることであったが,写真が大量印刷で使用されるようになるのはずっと遅れて,20世紀初頭になってからである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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