江戸時代後期,第11代将軍徳川家斉(いえなり)治下の文化・文政年間(1804-30)を中心とした時代。略して化政期ともいう。また,家斉が1837年(天保8)将軍職を家慶(いえよし)に譲り西の丸に退隠した後も,大御所と称して実権を握っていたため,将軍時代を含めた家斉一代の治世を大御所時代とも呼ぶ。
天明(1781-89)から文化・文政をはさんで天保(1830-44)にかかる約半世紀は,幕藩体制の解体期であり,太平の世相を謳歌(おうか)しながら,実は封建制の衰退が一段と深刻化した時期であった。また幕府政治のうえからも,その前後の寛政,天保の両改革期と違って改革的要素が少なく,無気力かつ腐敗した時期とされた。文化期にはまだ松平定信の親任した老中が政治をとり,改革の綱紀が残存していたが,文政期になると老中首座を務めた水野忠成(ただあきら)は収賄の権化といわれ,〈びやぼん(当時流行の笛)を吹けば出羽(いでは)(忠成は出羽守)どんどんと金が物いふいまの世の中〉とうたわれ,これはかなり誇張があったようではあるが,武士や役人の道徳意識が変化し,理想化された武士像とのギャップを民衆から批判されたことを物語っている。将軍家斉は生涯を通じて40人の側妾(そくしよう)を持ち,このうち17人の腹から55人の子が生まれたが,これは家斉の大奥生活がどんなに長かったかを物語るものであり,豪奢(ごうしや)な生活内容を示唆してあまりある。
家斉の奢侈(しやし)生活や北方問題の進展による出費の増大が,寛政改革でやや立直りを見せた幕府財政をふたたび悪化させたが,幕府はこれに対して,倹約令の反復と並んで貨幣改鋳(文政金銀)の益金に頼る方針を取った。しかし前後8回に及ぶ悪貨の乱発は幕府財政の補強には役だったが,諸物価の騰貴や銭相場の下落などを招き,民衆の生活をいっそう悪化させた。幕府は物価を安定させるため,大坂市場への入荷量の増加,江戸の需給の安定を図り,綿,灯油などの統制を強化したが,主産地の畿内の商品生産者や在郷商人の強硬な反対を受けた。この闘争は国訴(こくそ)と呼ばれ,一国を超えた規模にまで広がり,ついに幕府は灯油の自由売買を認めるに至った。ただ幕府は,ひざもとの江戸では,問屋仲間の連合体である十組問屋をより強力な独占団体である菱垣廻船(ひがきかいせん)問屋仲間に再編成することに成功して,寛政改革以来の幕府の方針である株仲間のてこ入れ政策が大きな成果を収めたが,これも長続きはしなかった。その原因の一つには,関東一帯の江戸地回り経済が一段と発展し,新しい流通ルートがこれまでの都市商人の集荷機構をかく乱するという事態が激化してきたことがあげられる。また,江戸地回り経済の発展は,農民の階層分化を促進して農村の荒廃を深刻化させ,無宿者や博徒の横行の一原因ともなった。これに対して幕府は関東取締出役を新設し,さらに関東全域の村を寄場組合村に編成して関東取締出役に直結させ,治安維持や農民の副業の取締りなどに当たらせた(文政改革)。
このように化政期の国内状況には深刻なものがあったが,日本を取り巻く国際関係も寛政期と比べて緊迫の度を加えてきた。とくに蝦夷地(えぞち)を中心とするロシアとの紛争が頻発した。そこで幕府は東蝦夷地をまず直轄に移し,次いで東西ともに直轄として直接管理する姿勢をとったが,ロシアとの関係が安定すると,直ちに蝦夷地を松前藩に返付した。長期的展望を欠いたこのような幕府の蝦夷地政策は,その後に禍根を残した。
執筆者:北島 正元
化政文化とは,19世紀前半,文化・文政期の文化現象をいう。従来は,その退廃性が強調されたが,近年ではこの時期に,江戸を中心に都市的・大衆的な文化が形成されたとし,しかもそれは地方をも巻き込んで展開したところから,近代を用意する国民文化の形成を促進したと積極的な評価が与えられている。
化政文化は大江戸文化ともいわれるように,江戸を中心に展開したところに文化史上の第一の特色が認められる。端的にいって,この時期の文化的生産を担った文人,画家,俳優の大半が江戸在住の人々であり,しかも彼らは主として江戸で活躍し仕事を残したのであった。江戸時代の前半,ことに17世紀は上方を中心に文化的な発展がみられ,いわゆる元禄文化はその成果ともいうべきものであった。しかし18世紀を通じて〈文化の東漸〉と呼ばれる現象が進行し,宝暦・天明期(1751-89)を境に文化的生産の中心は江戸に移った。人口100万を数える江戸の都市的成熟もさりながら,その間,江戸根生いの住民のあいだに〈江戸っ子〉といわれる意識が芽生え,彼らが文化を担う主体を形成しつつあったことが重要であろう。〈江戸っ子〉たちはみずからが都会の住人であることを強く自覚し,田舎風の野暮を嫌悪するとともに,粋(すい),いき,通(つう)といった独自の美意識を育て,彼らの文化に高度な洗練をもたらした。化政文化に濃厚な都市的な性格が指摘されるゆえんである。ところがまた〈江戸っ子〉の意識形成は一面では,それまで文化的な価値の基準となってきた上方への対抗心という性格をもっており,それは18世紀後半からこの時期にさかんに著された三都(京,大坂,江戸)比較論のなかでひときわ精彩を放つのが,江戸文人による上方,なかんずく京都批判であったことからもうかがえる。
ついで化政文化の大きな特色は,そのいちじるしい大衆性に求められるであろう。文化の大衆化はすでに元禄文化の特徴でもあったが,この時期に至るとその傾向はいっそう増大し,動かしがたい潮流となっていた。それは江戸をはじめとして,日本の都市のいくつかに大規模な大衆消費社会が出現していたという現実と密接に連動していた。したがって文化の大衆性も,この時期の文芸や芸能作品がしきりに庶民生活に題材をとったというところにも現れていたが,むしろ大衆の文化活動の活発化・多様化という面にこそ注意を払うべきであろう。それは,従来の文化生産における需要と供給の関係に大きな変化を強いるものであった。ことに化政期に顕著となった盛場の繁栄は,都市大衆文化の新たな表象とみなすべきものである。より具体的には,伝統的な遠隔地の芝居町の興行より市中の盛場の演芸に関心が集中し,高価な大芝居が不況をかこつ一方で簡便な小芝居・宮芝居が繁盛し,歌舞伎・人形浄瑠璃に対して安易な見世物・寄席が人気を集めるといったぐあいであった。また官許の遊里に対して私娼街,岡場所の広域にわたる分布も,同じ文脈で理解することができる。出版文化の分野についても,見立番付,瓦版など簡易な刷物の盛行はもとより,江戸市中に数百軒を数えた貸本屋が書籍の大衆化に果たした役割が注目されよう。このような文化の大衆化は,都市という環境と深くかかわっており,化政文化に都市性を付与する要因の一つともなった。むろん,これらは必ずしも江戸に限った現象ではなく,大坂や京といった大都市,ひいては名古屋などいくつかの地方城下町においても,程度の差こそあれ確認されるものであった。
化政文化に見られる大衆の文化活動への参加は,しばしば行動文化という名で呼ばれることがある。すなわち,享受者が生産者から一方的に文化の生産物を提供されるという関係ではなく,大衆それ自身がみずからの行為によって文化の創造に関与していくという意味である。これを典型的に示すのが,化政期における遊芸の普及であった。大衆的な遊芸の萌芽もすでに元禄期の上方町人の文化にみられたものであったが,この時期にその裾野の広がりは都市社会の底辺にまで達し,遊芸の対象となる範囲も広域に及んだ。それは通常の歌舞音曲にとどまるものではなかった。むしろ朝顔に代表される園芸が,この場合いい例となる。江戸市中にみられた朝顔栽培の流行は,珍奇な花を咲かせて競いあうものであったが,それには最低限の育種学的な知識を必要としていたはずであり,江戸の長屋の住民は,今日なら科学や学問の範囲に入るようなことまで,遊芸の範囲に取り込んでしまっていたのである。幕末に日本を訪れたある外国人は,日本の庶民が花づくりを楽しんでいるのをみて驚嘆している。彼の本国では王侯・貴族の趣味である園芸に,江戸の大衆が熱中していたからであった。むろん園芸に限らず,江戸の大衆はなんらかの遊芸にたずさわっており,しかも分野によっては早くも女性の参加がみられた。このような遊芸人口の増大が,それらに技術を教える町の師匠たちの生活を支え,さらにそれらを組織する機構としての18世紀に整備された家元制度をいっそう充実させる結果をもたらした。
化政文化の都市性を強調するあまりに,それを都市,なかんずく江戸の事象だけで論じるのは片手落ちであろう。化政文化の特色のもう一つとして,地方性という側面のあることを無視できない。その地方性とは,一つには化政期の都市文化が地方を視野に入れていたということと,二つには地方の文化が中央都市の文化と密接に連携していたという両面をもっている。十返舎一九の《東海道中膝栗毛》や歌川広重の《東海道五十三次》のごとく,当時の文芸や絵画が地方の風景や文物を好んで取り上げ,それが大いにもてはやされたのは,彼らの世界観に地方が位置づけられていたことの格好の表れであった。その背景には,18世紀後半から盛んになった旅行の大衆的流行を考慮しなくてはならない。伊勢参りなどの社寺参詣に端を発した庶民の旅行は,日常の生活空間の外にある世界への認識を深め,さらに未知なる地域への関心を高めた。この時期を前後して試みられた菅江真澄,屋代弘賢らの民俗誌的な調査・著述,あるいは間宮林蔵らの地理的な探検や測量の実施も,そのような流れのなかで理解されよう。他方,地方の文化に都市文化の影響が大きい。今日,村芝居のために建設された舞台の遺構が全国に2000棟近くも確認されているが,それは都市で完成された歌舞伎が急速に地方農村に伝播したことを物語る。上層農民を中心に都市的な遊芸に傾倒するものも出現し,それはまた家元制度の基盤を構成していた。村落の伝統的な文化の伝承は,都市的な文化の流入によって変貌を遂げることになった。この地方と都市との文化的な連携は国内における文化の平準化をもたらし,近代的な国民文化形成の基盤をかたちづくるものであったと考えられている。
ところで,化政文化の特徴として,それが世俗的であったことを指摘しておかなくてはならない。もともと縁日や開帳でにぎわった社寺の門前が恒常的な盛場となって大衆的な娯楽の場を提供したのも,社寺参詣を目的としていたはずの旅が遊興本位に性格を転じたのも,地方農村の神事としての奉納芸能が娯楽色の濃い都市芸能と入れ替わったのも,いずれもこの時期の文化の世俗性の一面をうかがわせるものであった。これら文化における世俗化の現象は,同時代の人々の生活態度そのものの世俗化に裏づけられており,世事への関心,さらに彼らの現実に対する客観的な認識にまでつながるものであった。したがってこの世俗性は,さらに作品の表現に写実的傾向として投影されることにもなる。この時期の文芸を代表する滑稽本にみられた世態描写の写実性,化政歌舞伎における生世話(きぜわ)物の形成と丸本物の江戸風演出,舞踊に多用された風俗描写の導入,フランスの印象派にも影響を与えた浮世絵版画の描法など,写実的表現の発露を示す事例は枚挙にいとまがない。また喜多村節信(ときのぶ)の《嬉遊笑覧》や喜田川守貞の《守貞漫稿》など,文人たちによって行われた風俗史の考証や記録の作成,あるいは《浮世の有様》や《許多脚色帖(あまたきやくしよくじよう)》をはじめとするさまざまな分野での情報の収集と分類・整理などにみられる実証的な態度も,同じ傾向の延長線上にあったとみてよい。にもかかわらず他面において,化政期の作品にはこれと矛盾するような怪奇性の同居が指摘できるのである。葛飾北斎や鶴屋南北の作品における写実と夢幻・怪奇の共存がそれである。この部分を一面的に強調すると,化政文化は退廃的な文化という消極的な評価をまぬがれがたい。また,たしかに世相には泰平の夢をむさぼる爛熟した気配も濃厚であった。しかし,この両面性にこそ近世社会の崩壊を予告する化政文化の特色を認めることができるのである。
執筆者:守屋 毅
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…家斉の大奥における性生活の特質を浮彫にしている。文化文政時代はまた,江戸を舞台とする町人階級の文化を成熟させたが,それは地方に波及し,郷土色豊かな郷土文化が形成されたのは民衆の活力を物語るものである。 幕藩制の危機は19世紀30~40年代の天保期に入るといちだんと進行し,〈内憂(国内的危機)〉と〈外患(対外的危機)〉とが統一的に自覚されるようになった。…
※「文化文政時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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