出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
愛媛県北東部、瀬戸内海燧灘(ひうちなだ)に浮かぶ島嶼(とうしょ)。新居浜(にいはま)市の北北東18キロメートルにあり、美濃(みの)島、家ノ島、梶(かじ)島、鼠(ねずみ)島、明神(みょうじん)島からなる。総面積1.26平方キロメートル。今治(いまばり)市に属す。1895年(明治28)以来住友別子銅山製錬所(べっしどうざんせいれんじょ)が置かれた。江戸時代から開発された別子銅山の鉱石は別子山、端出場(はでば)、惣開(そうびらき)などで粗銅製錬が行われていたが、明治になって生産量が増加すると煙害が増加した。1895年住友は、無人島であった四阪島4島を買収し、製錬所を家ノ島に建設、美濃島を住宅地とし、両者を埋立てで連絡し、1905年(明治38)操業を開始した。しかし亜硫酸ガスの煙害はかえって被害地域を拡大し、越智、周桑(しゅうそう)、新居、宇摩(うま)の東予四郡に及び、製錬鉱量の制限や補償金の支払いがなされ、とくに米麦作期に強化された。1930年(昭和5)ペテルゼン式脱硫装置、1939年中和法の硫黄(いおう)工場が完成し、以降の大気汚染問題は解決した。その後同製錬所はわが国有数の銅製錬所として栄え、1960年(昭和35)には人口3700人、年間銅生産量5万トンに達し、島には診療所、学校、商店、社寺などがあった。1973年別子銅山の閉山、世界的銅鉱業の不況で、1976年同製錬所も閉鎖し、ほとんどの住民が離島した。現在、住民はおらず、製鋼煙灰から酸化亜鉛を回収する工場が操業していて、新居浜港から船で工場に通勤する人がいる。
[深石一夫]
愛媛県北部,新居浜市の沖合の燧(ひうち)灘に浮かぶ4島(明神島,鼠島,家ノ島,美濃島)の総称。総面積約1km2。今治市に属する。中心は製錬所のある家ノ島と社宅がある美濃島で,両島は鉱滓(こうさい)の埋立地でつながる。別子銅山に産する銅を製錬する新居浜市惣開(そうびらき)の製錬所から発する煙害問題解決のため住友が1895年にこれら無人島を買収,1905年に製錬所を移転させた。しかし,煙害はかえって広範囲に及び,越智(おち),周桑(しゆうそう),新居,宇摩各郡の東予一円が大被害を受けた。その後激しい反煙害闘争の中で,30年ペテルゼン式脱硫装置が,39年には中和工場が完成し煙害問題は解決した。島の人口は40年前後には4300人にも達したが,73年の別子銅山の閉山と世界的な銅鉱業不況で76年に銅の製錬所を閉鎖したため島民はほとんどが離島した。その後は,銅滓製錬工場(1976完成)を稼働させるのみで(現在は亜鉛回収のリサイクル事業),従業員は新居浜市から通勤する。そのため事業用の通勤船がある。
執筆者:穐岡 謙治
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…嘉永年間(1848‐54)には住友の清水惣右衛門が惣開(そうびらき)新田を開発した。明治に入り,惣開には洋式製錬所が設けられたが,1893年鉱山鉄道が開通して本格的操業が始まると煙害問題が起こり,反対運動が続発,製錬所は1905年に燧灘の四阪(しさか)島に移された。 昭和初期,住友によって大規模な築港・埋立工事が計画され,肥料,発電に加えて製錬,化学,機械など住友資本の大工場群が立地する近代工業都市となり,東予新産業都市の中核をなしている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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