中部地方は「中部圏開発整備法」による計画的地域単位としてではなく、もともとは教育的地域単位として生まれている。1904年(明治37)に日本の国定教科書がつくられるに際して、本州の中央部に位置し、関東と近畿の中間に挟まれた地域を中部と称した。『新撰(しんせん)小学地理』の編者喜田貞吉(きたさだきち)は、1900年に『日本中地理』で従来の畿道(きどう)区分にかえて北海道、奥羽、関東、中部、近畿、中国、四国、九州の8区分を用いた。その理由として1904年に小学校高等科用国定教科書小学地理の編纂(へんさん)趣意書において「関東及び奥羽と近畿の中間の地方は別に適当なる名称なきが故(ゆえ)に姑(しばら)く本州中部地方の名を用いたり」と述べている。
この中部地方という区分の確立は、1872年(明治5)の東京・大阪間の電信の開設、1882年の東京、大阪の陸軍造兵廠(りくぐんぞうへいしょう)の配置、1889年の東海道線の全線開通によって本州が一体化しつつある時期にあたる。中央(中部)への認識を高め、関東と近畿の紐帯(ちゅうたい)としての中部の地理的位置を再認識させた。
地理教育上の中部地方の区分は、一般社会においてはなかなか定着せず、律令制(りつりょうせい)以来の畿道区分を基礎とした太平洋岸の東海、日本海岸の北陸、両地域間の東山(とうさん)の3地域区分が明治に至ってなお生きていた。東海道は、771年(宝亀2)に武蔵の国を東山道から切り離して新たに加えるまでは、相模(さがみ)、甲斐(かい)、伊豆(いず)をもって東縁とし、陸上では、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)とは連続していなかった。当時は京都からみた遠国(おんごく)、中国(ちゅうこく)、近国、の区別があり、相模、甲斐、伊豆の東縁3国のうち、相模のみは異質の遠国とされた。中国は、伊豆、甲斐に駿河(するが)、遠江(とおとうみ)を加え、参河(みかわ)、尾張(おわり)、伊賀、伊勢の近国と区別されていた。東山道は、近江(おうみ)、美濃(みの)を近国とし、山岳の飛騨(ひだ)、信濃(しなの)、諏訪(すわ)を中国とし、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)以北を遠国とした。北陸道の北縁は、712年(和銅5)に出羽の国が置かれて、遠国の越後(えちご)と区分されることで確定し、中国の越中(えっちゅう)、越前(えちぜん)と近国の若狭(わかさ)とともに北陸道が形成された。718年(養老2)にはこれらに中国として能登(のと)が置かれ、一時的に越後に組み込まれた佐渡(さど)(743~752)と同様に越中(741~757)に組み込まれた。
こうした3地域の区分は、鎌倉幕府の開設に伴ういわゆる鎌倉街道に始まる陸海の交通路の整備で、しだいにその骨格が形成された。江戸幕府の開設された翌年に五街道に一里塚が置かれるころには、東海道、中山道(なかせんどう)、その間の甲州街道が、江戸・大坂間の菱垣廻船(ひがきかいせん)、樽廻船(たるかいせん)の航路とともに、中央日本を創成した。さらに追分(おいわけ)で分かれる北国街道と金沢から垂井(たるい)に至る脇(わき)街道の北国路とが、下北(しもきた)の田名部(たなぶ)・大坂間の西回り航路とともに、その背後地である北陸をいわゆる米遣(こめつか)い経済(石高を基礎とした幕藩体制下における米を主たる商品とした経済)の下での産業基地として育成した。
この基本構造を踏まえ、計画地域として東海と北陸が区分されたのは、わが国の国土計画の基礎をなした1943年(昭和18)の「中央計画素案・同要綱案」である。これによって、風土、文化、厚生、景観の統一性に配慮しながら、市郡界のもつ行政的効率性を重視し、海洋国家の国防単位地域としてすべての地域が海岸線をもつように10地域に区分された。北陸は、会津(あいづ)、北信、飛騨を含み若狭を除き、東海は南信を含み東伊豆と伊賀を除いた。この地域区分は、1927年以来内務省国土局が河水統制事業を通じて培ってきた流域管理行政を基に、中央集権的国防国家体制の策定目標に従った自立的国防地域の確立を志向するものであった。
中部地方が、東海と北陸が一体となって初めて国土計画の単位地域となったのは、本土防衛の地域的独立性を志向した1945年の戦時国土計画素案である。一体化に際しては、戦前の戦時地方計画策定要綱での道州庁別に留意し、地方議会制と軍管区制を調整して、太平洋岸と日本海岸の連坦(れんたん)性を強化するため、岐阜、静岡、愛知、三重の東海4県と、富山、石川、福井の北陸3県が一体化された。北陸の新潟と東山の山梨、長野は関東地方に、滋賀は近畿地方に区分され、ほぼ今日の基本的地域構造に基づく主体的地域計画による地域区分が確立した。
こうした地域構造、地域計画上の区分の一方、学校教育では、伝統的・教育的地域単位を重んじ、北陸4県(新潟、富山、石川、福井)、東山2県(山梨、長野)、東海3県(岐阜、静岡、愛知)からなる本州中部を中部地方とし、三重、滋賀を含む2府5県を近畿地方としている。
なお、以下の解説における統計数値には、三重、滋賀を含むものがある。
[宮川泰夫]
中部は、東西から太平洋プレートとユーラシアプレートに挟まれ、また北からは北アメリカプレート、南からはフィリピン海プレートが迫り、本州の東北弧と西南弧を分断する大地溝帯、フォッサマグナが通る。その西縁は150キロメートルに及ぶ糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線で、北部は東側が、南部は西側が隆起する逆断層成分であり、約1000年単位で活動する。日本海側の糸魚川と太平洋岸の御前崎(おまえざき)の距離は、280キロメートルと本州のなかでもっとも幅が広い。また日本海側には日本最長で、利根川(とねがわ)、石狩川(いしかりがわ)に次ぐ流域面積をもつ信濃川(しなのがわ)の形成した越後平野(えちごへいや)(新潟平野)があり、太平洋側には流域面積では第5位の木曽川(きそがわ)と長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)の形成した濃尾平野(のうびへいや)がある。
太平洋プレートとその他のプレートとの接合面は、日本海溝と伊豆・小笠原海溝(いずおがさわらかいこう)をなし、その背後には七島・硫黄島海嶺(しちとういおうとうかいれい)がある。この海溝とほぼ並列して、その境界線をなす火山前線とそれに平行に走る火山列からなる古い概念の東日本火山帯と、南海舟状海盆(なんかいしゅうじょうかいぼん)と南西諸島海溝の背後で白山から霧島へと延びる西日本火山帯が展開している。日本最高峰の富士山(3776メートル)はこうした火山の象徴である。
これらの火山帯は、富士箱根伊豆国立公園だけでなく、この北に続く秩父多摩甲斐(ちちぶたまかい)国立公園、八ヶ岳(やつがたけ)中信高原国定公園、妙義荒船佐久(みょうぎあらふねさく)高原国定公園、上信越高原国立公園として、中部の東側を縁どっている。構造線の西側では、第三紀鮮新世から第四紀にかけて急激に上昇した奥穂高岳(3190メートル)を頂点とした飛騨山脈(ひださんみゃく)と白根山(北岳、3193メートル)を頂点とした赤石山脈が走り、それぞれ北アルプス、南アルプスとよばれ、中部山岳国立公園と南アルプス国立公園の中枢をなす。この両山脈の間にも駒ヶ岳(こまがたけ)(2956メートル)を頂点とする木曽山脈(ほぼ全域が中央アルプス国定公園)があって、中部山岳はいわゆる日本の屋根を築いている。
プレートの接合面での火山や断層の存在は、1923年(大正12)の関東大震災や1944年(昭和19)の東南海地震、1964年の新潟地震を生じている。1891年(明治24)の濃尾地震(のうびじしん)は内陸型地震としては日本最大級で死者7273人に及び、この地震で出現した根尾谷断層(ねおだにだんそう)は特別天然記念物に指定され、断層の長さ約80キロメートルの北西縁は福井に及んでいる。これを契機に貴族院から総理大臣に提出された建議案に基づき、翌1892年に地震予防調査会(1892~1925)が発足した。福井平野でも、1948年(昭和23)に活断層による福井地震が発生し、死者3892人を数え、この体験から気象庁は震度階級に震度7、激震を加えた。
1968年(昭和43)の十勝沖地震(とかちおきじしん)を契機に地震予知連絡会議が設けられ、東海は南関東とともに観測強化地域の指定を受け、1978年の「大規模地震対策特別措置法」による地震防災対策強化地域にもその一部が含まれた。1995年(平成7)には死者6432人(2000年消防庁発表資料による)にのぼった阪神・淡路大震災を契機に「地震防災対策特別措置法」が公布され、これに基づいて地震調査研究本部は翌1996年に中央構造線の長野~山梨中央部150キロメートル間で、約1000年周期のマグニチュード8程度の地震の存在を指摘した。伊豆東部の単成火山群による1978年以来の群発地震の震源もしだいに伊東に近づいてきた。
山岳部に対し海岸部では、日本海岸で越後平野(えちごへいや)、富山平野、金沢平野が、太平洋岸では、247平方キロメートルに及ぶ海抜ゼロメートル地帯をもつ濃尾平野(のうびへいや)が広がる。こうした平野では、新潟地震での地盤液状化被害や1959年の伊勢湾台風(死者、行方不明者5101人)での浸水被害が大きな災害問題となっている。濃尾平野(三重県桑名市長島町白鶏(はっけ))の地盤沈下は1965年以降高度経済成長とともに顕著となった。しかし、「工業用水法」やいわゆる「ビル用水法」での地下水の汲(く)み上げ規制強化と1973年の石油危機以降の産業構造転換による用水型工業の低迷で、累計沈下を約170センチメートルにとどめることができた。地盤沈下する地域は全国にまだ多くある。越後平野(坂井)は、1895年以来約200センチメートル沈下している。1935年ごろからの大阪平野(淀川区大野)は約250センチメートル、1895年以来の関東平野南部(江東区亀戸(かめいど))は約440センチメートルの沈下である。これらに比べれば、濃尾平野は小規模にとどまったといえよう。
新潟平野は、信濃川(流域面積1万1900平方キロメートル、流長367キロメートル)の河口の沖積平野である。濃尾平野は、流域面積第5位の木曽川(流域面積9100平方キロメートル、流長227キロメートル)とその西の長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)の木曽三川からなる沖積平野で古くから洪水に悩まされ、周囲を堤防で囲った独特の輪中景観が卓越する。一方、太平洋岸の富士川、大井川、天竜川や日本海岸の黒部川、常願寺川(じょうがんじがわ)、神通川(じんづうがわ)、手取川(てどりがわ)、九頭竜川(くずりゅうがわ)などの急流も日本の屋根から流れでて、落差も大きく、1952年の電源開発促進法(2003年廃止)や1957年の特定多目的ダム法によるダムが設けられて日本有数の電源地域となっている。
中部地方の気候は、ジェット気流、偏西風に対する位置、広い面積をもつ中部山岳高地の存在に左右され、また両岸を流れる暖流の日本海流や対馬海流(つしまかいりゅう)、駿河湾(するがわん)・伊勢湾・富山湾・若狭湾(わかさわん)などの大湾の存在にも影響を受け、地域によって多様な様相を呈する。盆地気候や都市気候がその多様性をさらに複雑にしている。
気候区は日本海岸、中部山岳、太平洋岸の3地域に分かれ、その差異は、とくに冬季に顕著である。ジェット気流が強まり、シベリア高気圧から吹く北西の季節風が卓越する日本海岸では、湿潤、多雪で、海岸沿いの里雪と山岳沿いの山雪が豪雪をもたらし、1962年の「豪雪地帯対策特別措置法」で、東頸城丘陵(ひがしくびききゅうりょう)をはじめ特別豪雪地帯の指定を受けている地域が多い。栃尾又(とちおまた)、入広瀬、妙高高原、戸隠(とがくし)、祖山(そやま)、白峰などが代表的豪雪地域で、内陸では岐阜県の上川にまで及ぶ。一方、空っ風となって季節風の吹き降りる太平洋岸は快晴で乾燥する日々が多い。中部山岳地域は寒冷で、高山では、本州有数の最低気温(マイナス25.5℃、1939年2月11日)を記録している。
春になって日本海に低気圧が発生すると、南風が山地を越えて北陸に吹き降ろしフェーン現象を生み、礪波(となみ)散村での屋敷森や風の神を祀(まつ)った風神堂(ふかぬどう)といった独特の景観をも形成している。夏の最高気温は大都市の名古屋(40.3℃、2018年8月3日)、盆地の甲府(40.7℃、2013年8月10日)・美濃(みの)(41.0℃、2018年8月8日)だけでなく、日本海岸の寺泊(てらどまり)(40.6℃、2019年8月15日)や、太平洋沿岸部の浜松(41.1℃、2020年8月17日)などにも現れている。
東海地方(太平洋岸)での多雨地域は、大井川中流の井川ダムで年降水量が3000ミリメートルを超す。一方、精密小零細工業の簇生(そうせい)で有名になった坂城(さかき)(長野県)は、872ミリメートルと本州では年降水量が最小の地域をなしている。降雨は台風期に多く、台風銀座とよばれる紀伊山地大台が原の前面に位置する尾鷲(おわせ)は、日本で有数の日降水量(806ミリメートル、1968年9月26日)を示す。また、梅雨期には山地と盆地の差は大きく、山地が月降水量で300ミリメートルを超すのに対し、甲府盆地をはじめ盆地では150ミリメートル以下となる。こうした気候の多様性も原因となって、伊勢湾(1953、1959年)、長良川(ながらがわ)(1959、1960、1976年)、狩野川(かのがわ)(1958年)の台風災害だけでなく、伊那谷(いなだに)(1961年)、飛騨(1969、1998年)など梅雨前線に伴う集中豪雨災害も顕著で、北陸山間では地滑り災害も多発している。
地形や気候そして河川の多様性を反映して、中部の生態系も多様かつ複雑であり、日本海岸と太平洋岸の差異、高度帯の垂直的差異、火山と非火山の差異などが目だつ。また、木曽と赤石のように、植生帯の高度差は海岸からの距離も関係して生まれる。越前岬(えちぜんみさき)のスイセンに見られるように対馬暖流の影響で比較的暖かく、暖帯常緑広葉樹林の卓越する丘陵帯(500メートル以下)が海岸線から広がり、さらに温帯落葉広葉樹林の見られる山地帯(500~1500メートル)、亜寒帯常緑針葉樹林の亜高山帯(1500~2500メートル)、さらにその上の常緑針葉低木林の高山帯(2500メートル~)が存在する。高山帯にはコメバツガザクラなどの雪田群落(すり鉢状の地形の底に雪渓からの豊富な融雪水がたまった湿潤な地帯に形成される植物群落)や雷鳥などが見られる。茶栽培は、丘陵帯と山地帯の境界を示す風土景観をなす。ブナ林が卓越する日本海岸では、シラベ優占林をもつ太平洋岸と異なり、ブナ林が直接アオモリトドマツに接する。クワガタソウとヤマクワガタは、太平洋側と日本海側をすみ分けている。
[宮川泰夫]
中部地方11県(静岡、愛知、岐阜、三重、富山、石川、福井、長野、山梨、新潟、滋賀)の合計総生産額は、102兆8357億円(1996)で、首都圏、近畿圏とともにわが国の経済活動の中心を担っている。このうち、「中部圏開発整備法」に基づく中部圏(上記11県から、山梨、新潟を除く9県)で、87.3%を占める。県別では、愛知(34兆3596億円)が県内総生産で東京(85兆5737億円)、大阪(40兆3106億円)に次ぎ、その中核をなす。これに静岡、新潟、長野、岐阜、三重の順で続き、いわゆる東海4県が生産基地を構成している。産業別では、工業生産の比率は、愛知(38.9%)を筆頭に静岡、三重、岐阜ともに、全国平均(25.9%)をはるかに上回り、工業がこの地方の基礎であることを示している。
県民所得の合計は82兆3029億円で、上述した法制圏域の9県の合計はその87.5%である。総生産額の順序と同じく、愛知を筆頭に静岡、新潟、長野、岐阜、三重の順である。東海4県の企業所得割合は、愛知と三重は全国平均(22.7%)を上回るが、静岡、岐阜は、全国平均の比率が上がったこともあって平均以下となった(21.9、21.1%)。この割合が高いのは滋賀で、36.6%である。雇用者所得の割合では愛知(66.9%)は、東京(78.2%)、大阪(72.1%)だけでなく、いわゆる広域中心都市を擁する同クラスの県と比較しても低い。県民1人当りの平均所得は、愛知県は、東京に次いで全国2位であるが、中部圏の他の県は、滋賀県を除いてすべて全国平均以下で、大都市経済圏の構造的脆弱(ぜいじゃく)性を物語っている。愛知県にしても、1人当り雇用者所得になると、企業所得の割合が高い分低くなり、全国でみるとベストテンにも入っていない。
[宮川泰夫]
中部の製造品出荷額は、全国の30.0%を占めている(1996)。なかでも愛知の11.2%は突出していて、東京(6.4%)、神奈川(7.8%)や大阪(6.8%)、兵庫(4.6%)に比べても群を抜いている。愛知の両翼をなす静岡(5.2%)、三重(2.5%)も埼玉(4.9%)、千葉(3.8%)に匹敵し、近畿の京都(2.0%)、和歌山(0.7%)を大きく凌駕(りょうが)している。愛知の背後の岐阜も、長野や滋賀に次ぐ地位を占める。北陸の富山、福井、石川は全国シェア1%内外である。この中部を主導しているのが愛知県で、同県は1977年(昭和52)以来、日本で最大の都道府県別工業出荷額を保持してきている。愛知県内では、1978年以降単一企業都市豊田が、大都市名古屋にかわって市町村別工業出荷額で第1位を占めている。自動車工業の世界の中枢をなし、豊田中央研究所も、トヨタ自動車博物館に向かい合って、名古屋と豊田の中間の現在の長久手(ながくて)市に1980年に移転した。その名古屋の跡地には、豊田工業大学が創設され、名古屋市栄生(さこう)の豊田の発祥地には1994年(平成6)にトヨタ産業技術記念館が開設されている。
中部の工業は、繊維、陶磁器、木材などの地場産業を基盤として発展してきた。和紙や製塩など京都、大阪、奈良といった古都を中心とした交通路と生産流通体系を結合した独特の地場産業をも生み出した。その産業遺構だけでなく適応残存してきた美濃紙(和紙)や白子(しろこ)の型紙(かたがみ)のような伝統工業を多数保持してきている。
中世期に、輪島の素麺(そうめん)座や大野の絹織物座など特異名物も含め各地に座が生まれ、関、高岡、中居などには鍛冶(かじ)や鋳物産地も簇生(そうせい)した。江戸時代に入り、陸路、海路の全国的整備が一段と進展したことや、幕藩体制のもとでの殖産政策にも助けられて、今日まで存続する城下の伝統工業や村落の在来工業が確立してきた。築城と深く関連した名古屋の木材や岡崎の石工、宿場商いとしての進取の気風で時代変化に適応した鳴海(なるみ)絞り、有松絞り、京都の鹿の子(かのこ)絞りの下請けとして発展した名古屋の大高(おおだか)絞りなどがその代表である。尾張藩の殖産政策は、有田から磁器の技術を導入させた瀬戸の陶磁器産地としての脱皮に象徴され、産地革新機構の構築と深くかかわっている。名古屋に比べ歴史の古い加賀前田藩の城下町金沢では、金箔(きんぱく)、象眼(ぞうがん)など京都に優るとも劣らない伝統工芸が江戸時代に確立した。
明治に入ると、開国に伴う近代化に呼応した産業の活性化をみせた。越後の燕(つばめ)(新潟県燕市)の洋食器だけでなく、新たな国際貿易港の横浜を活用した信州の製糸組合や神戸を利用した尾西(びさい)の織物業のように、関東・関西両圏の近代化と密接にかかわりながら近代的地場産業地域へと更新していった。こうした中部の中間性が、東京の技術と大阪の流通を、独自の帳場制(帳場ごとに親方の下に職人をもって自立のための資金を蓄積させる制度)による暖簾分(のれんわ)けと結合させた。創業企業「増永(ますなが)」による鯖江(さばえ)の眼鏡枠工業や、松本の僧臥雲辰致(がうんたっち)により考案され三河で展開したガラ紡(ぼう)に始まり、今日でも残存する再生糸業に象徴される近代的地場産業は、こうして生み出されたのである。
名古屋城下の堀川運河沿いに誕生した木材工業は、城下の家具などの伝統工業だけでなく、城下周辺の繊維、窯業などの地場産業と関連して名古屋に産業機械を生む母体をなした。そして、それが名古屋駅近くの新堀川(精進川)沿いに日本車輌製造のような車両工業をも生み出す先行産業となった。この車両工業の寡占化の過程で倒産した隣接の鉄道車両の跡地には、東京砲兵工廠(こうしょう)熱田(あつた)兵器製造所が進出した。これは、神戸より三菱(みつびし)、川崎の航空機生産を導入するまでに成長した。また地場の和時計生産を母体に計器生産に参入していた愛知時計電気製造が、愛知航空機を誕生させる基盤を確立した。航空機産業を基盤とした自動車生産の拡充は、豊田の織機を母体とした新川町(現、清須(きよす)市)の豊田式織機(現、豊和工業)と刈谷(かりや)の豊田自動織機製作所(現、豊田自動織機)に委ねられた。
特筆すべきは、1937年(昭和12)に設立された挙母(ころも)(豊田市の旧称)のトヨタ自動車である。大都市名古屋と刈谷の部材工業を基盤に、大阪のゼネラル・モーターズ(GM)の量販のノウハウと横浜のフォードの量産技術を導入して大成長した。戦時における政府の自動車工業育成策も幸いした。このことが、第二次世界大戦後の三菱をはじめとした航空機産業の自動車産業への参入と、それを基盤とした航空機産業の復活を可能にした。さらに浜松の本田技研工業、スズキ、ヤマハを包含した東海自動車工業地域を確立し、その鋼板需要が知多半島の東海製鉄(現、日本製鉄名古屋製鉄所)の創設、さらにそれが既存の地域産業の拡充・集積につながり、ファインセラミックスセンター(JFCC、名古屋市熱田)の設立に象徴される地場産業の革新をも促進した。
名古屋が四日市にかわって国際貿易港となった1923年(大正12)ごろまでは、四日市は精油、製茶、製糸を母体とした地場資本に主導されていた。それは、三重紡績(現、東洋紡)を頂点として進展していたが、遠州との競合に敗れて羊毛工業にかわった尾西毛織物産地への原毛輸入港となり、しだいに海軍燃料廠などを導入し、臨海工業地域となった。これを母体に、戦後の石油化学工業育成策の所産として、日本を代表する化学工業基地となり、1972年(昭和47)の四日市公害裁判(四日市喘息(ぜんそく)訴訟)の判決と1973年の石油危機、円の変動相場制移行を契機とする産業構造転換の嚆矢(こうし)となった。その一つの象徴が、リオ・デ・ジャネイロでの国連環境宣言に先立つ1991年(平成3)の四日市での国際環境技術移転研究センター(現、国際環境技術移転センター)の開設である。
四日市の石油化学工業発展の母体となったのは、三菱化学(現、三菱ケミカル)や、戦時経済体制のもとで新潟の地場資本を集めて生み出された大協石油(現、コスモ石油)である。東海と北陸の工業の連携は、航空機や自動車でも一時的なもので定着せず、東海の工業集積が新産業都市新潟、富山、高岡の臨海工業の発展を抑制した。そして、現代産業革命に向けての産業構造の転換期においても、出遅れた東三河の工業整備特別地域が流通加工基地として再生したのと対照的に、掘り込み港湾の福井臨海工業地域を未利用の状態にとどめたともいえよう。
[宮川泰夫]
中部圏は、工業と同様、今日では農林漁業の面でも先進的生産基地をなしている。中部の農業粗生産額は全国の20.1%(1996)を占める。古くから米どころとして発展してきた新潟は3.6%で、首都圏の千葉、茨城などに次いで第6位である。新潟につぐ愛知(3.6%)は、千葉と類似した大都市近郊農業地域を確立している。静岡、長野も全国的には農業粗生産額の大きな近代的農業地域を形成している。
1995年の就業人口割合では、長野(12.6%)、山梨(9.7%)の両県は、全国平均(5.3%)を大きく上回り、首都圏、中部圏、近畿圏からなる中央日本では最高位に位置する。
1997年の販売農家数では新潟(10万6200)、長野(9万9800)の順である。しかし、主業農家数では、長野は2万2180と新潟(1万6740)を抜き、全国的にも上位にある。
今日の農業は、近代化され、企業化された主業農家だけでなく、農外所得に支えられた副業的農家の存在なくしては語れない。たとえば長野の農業所得は121万3000円(1996)だが、農外所得は3倍以上の462万円もある。福井、滋賀では農外所得が800万円を超える。大都市域の愛知県は農業所得(212万9000円)と農外所得を合わせた農家所得は1147万2000円である。こうした本業以外の所得が過半を占めるという農業の現実は、今日の農業のもつ脆弱(ぜいじゃく)な産業基盤を示している。
1997年の都道府県別農業用地面積をみると、新潟が18万4600ヘクタールともっとも多い。その水田面積率は88.4%と富山(6万2900ヘクタール、95.9%)、滋賀(5万7500ヘクタール、91.8%)、福井(4万3900ヘクタール、90.9%)に次ぎ、全国的にも第5位である。稲作農業収益比率では、富山(74.8%)が全国一で、これに福井、新潟、石川が続く。古くから畿内(きない)の米どころをなしてきた滋賀も67.3%と高い。新潟には第二次世界大戦前の大規模水利組合として有名な亀田郷水害予防組合(1914年設立)があり、戦後はいち早く1948年に国営阿賀野川沿岸事業が開始されている。全国に先駆けて水管理、品種、栽培契約で水稲集団栽培を開始したのは愛知県安城(あんじょう)市の高棚(たかたな)地区で、ここでは県営の圃場(ほじょう)整備事業(1969~1971)も行われた。米作において注目すべきことは、水稲の1ヘクタール当りの収穫量である。早稲(わせ)、早植など寒冷地稲作技術改良で1952年以来多少の変動はあるが、長野(6.10トン)は全国一を占め、山梨(5.25トン)も北陸3県や滋賀(4.73トン)を上回る。
普通畑面積は、長野(3万7200ヘクタール)が中部第1位で、全国でも第6位を占め、これに愛知、静岡が続く。樹園地面積では、静岡(3万3800ヘクタール)、長野(1万9500ヘクタール)、山梨(1万3100ヘクタール)の順で、静岡は、愛媛、青森、和歌山、熊本を上回り全国一である。長野は熊本に次ぐ。
長野、山梨は古代からクルミ、ナツメ、ナシなどの果実に加え、カラシなど特産物を有してきた。クルミは若狭(わかさ)、越前(えちぜん)でも採取されていたが、中世に入ると山梨ではブドウ栽培もみられ、岐阜ではカキ栽培が特筆される。両地の中間の信濃(しなの)はナシに加え木材生産と深くかかわった木賊(とくさ)を特産物としていた。こうした商品農業が新田開発とともに進展したのは、越後(えちご)の紫雲寺新田や三河の神野新田(じんのしんでん)など、用水路開削や干拓による新田開発と藩の特産品生産の殖産政策が深化した江戸時代である。なかでも、遠州、駿河(するが)のミカンは特筆に値する。これは、明治以降いわゆる報徳社運動と結合して、清水を中心に東は伊豆、西は三ヶ日(みっかび)、蒲郡(がまごおり)へと広がり、今日でも技術改良とハウス栽培で愛媛、和歌山に次ぐ産出高(14万0600トン)をあげている。
ブドウは山梨(6万5500トン)が産出高第1位で、長野(3万2800トン)、山形(2万2700トン)が続く。1929年の農業調査結果報告書によると、山梨県は、桑畑が畑地の72.2%を占め、長野(78.0%)に次いでいた。それだけに昭和恐慌以降の「蚕糸業組合法」(1931)に始まる蚕糸業の構造調整の下で、果樹栽培の奨励、ブドウから軍需品「酒石酸」を抽出するための保護奨励が、古くからのブドウ栽培を存続させ、戦後の果樹振興を可能とした。長野のリンゴ産出高は、19万8100トンと青森(44万2800トン)に次ぐ。モモは、山梨(5万8500トン)、長野(2万3300トン)が、福島(3万2400トン)とともに日本有数の産地である。
野菜では、長野はレタス栽培(17万9000トン)が全国一で、愛知のキャベツ(21万5400トン)とすみわけている。かつては、食品会社カゴメとの契約栽培などで全国の主導産地であった愛知のトマト(4万8500トン)は、今日では熊本、千葉の後塵(こうじん)を拝している。このほか、茶は、特色ある農業景観をつくるものとして、横浜開港以降輸出茶業産地として形成された牧ノ原(静岡県)をはじめ、各地の仲買商、斡旋(あっせん)商、農協などを媒介に独自の生産流通機構を確立した。いまや静岡(4万1000トン)は、2位の鹿児島(1万8300トン)を大きく上回る産地である。また静岡市は全国の約3分の1を扱う茶の流通加工産地である。これに先だち世界的荒茶の流通加工地域であった四日市市街地背後の同市水沢(すいざわ)は、今日では重要な宇治茶の原料供給地であり、銘茶産地でもある。同県は全国第3位の茶産地(7630トン)である。産出高は少ないが、愛知も西尾(にしお)の碾茶(てんちゃ)をはじめ、茶業生産技術では先進地である。
植木栽培では西尾、稲沢を擁する愛知が全国有数の産地であるが、農業景観としてもっとも卓越するのは電照ギク栽培である。キクの全国シェアは26.7%で断然1位の座を保持し、静岡(同5.0%)とともに中央日本で特色的農業景観を形成している。また、日本のデンマークと称されデンパークを開設した安城や知多(ちた)の酪農など、畜産でも確固たる地位を保持している。
北陸では礪波(となみ)のチューリップが有名。屋敷森で囲われ、約200メートル間隔で農家が散在する散村地域を中心に、オランダからの新たな品種、技術の導入でチューリップ栽培がなされ、球根はアメリカ、カナダに輸出されている。反面、古くから福井の三里浜、石川の内灘(うちなだ)などの砂丘を彩ったスイカ、ナガイモ、ラッキョウ、ブドウなどの砂丘農業景観は、掘り込み港湾や工業用地開発で失われていった。
[宮川泰夫]
2000年(平成12)の林家数は、岐阜は3万6000戸で全国第7位、長野は3万5000戸で第8位、新潟は3万1000戸で第9位である。林野面積では、長野は102万3000ヘクタールで岐阜(84万5000ヘクタール)を上回り、北海道、岩手に次いで全国第3位である。長野、岐阜ともに民有林面積の比率が高い。林相では、長野は人工林、天然林とも針葉樹が卓越し、新潟は天然の広葉樹で全国第2位を占める。岐阜は両者の中間で人工の針葉樹と天然の広葉樹がほぼ肩を並べる。しかし、中部の林業は素材生産量に示されるように、北海道、北東北、南九州に比べてかならずしも活発とはいえない。
[宮川泰夫]
日本の漁業は、その基幹をなしていた沖合漁業が1989年(平成1)以降衰微し、それ以上に各国の200海里水域設定の影響を受け、遠洋漁業の漁獲量も1989年には沿岸漁業の漁獲量に抜かれた。さらに1991年には海面養殖業にも抜かれ、1997年の「国連海洋法条約」の批准に伴って、水産王国日本の漁業は根本的構造改革を強いられている。1996年の漁港別水揚げ量では、遠洋マグロ、カツオの基地、焼津(やいづ)は20万8000トンと、マイワシ、サバの減少した鳥取県境港(さかいみなと)(25万6000トン)、イカとイワシの八戸(はちのへ)(24万1000トン)に次ぐ地位となった。マグロの清水(4万9000トン)も漁獲量ではイワシの新潟(5万2000トン)に抜かれている。そして、カツオ、マグロの基地、紀伊半島の尾鷲(おわせ)も昔の華やかさはない。静岡は、1908年(明治41)に県水産試験場で発動機付き西洋式漁船を開発して動力化を促進し、交通網、冷凍、冷蔵をはじめ関連施設の整備と首都圏の拡大とともに、三崎を凌駕(りょうが)してその地位を固めた。地縁、血縁の紐帯(ちゅうたい)としての船中制度(ふななかせいど)(船元と船子の結びついた一船一家的体制)を生かし、資本再編成による構造変革に対応して今日までその地位を保持してきている。
経営個体数では、三重県は8164(1997)で、北海道、長崎に次いで全国3位、静岡(3297)の2倍以上にのぼる。しかし非個人ではわずか304しかなく、零細な個人漁業者が多いことを物語っている。北陸は大陸棚の漁業の発達が弱く、海底地形や海流の関係で定置網漁業の発達した例外的地域を除き、京の台所として若狭から魚を運んだ当時のにぎわいはない。それでも、エチゼンガニ、アマエビ、ホタルイカなど特色ある魚種や金沢近郷の内灘、能登の小木(おぎ)、輪島など伝統的漁村の朝市などによって北陸の漁業はまだ全国的名声を保持している。北陸は、冬の北西の季節風による時化(しけ)が多く、古くから冬期間の漁業には不向きであった。したがって、漁民も廻船(かいせん)や北前船の航路に沿って北上し、内灘の北海道宗谷でのホタテ曳(ひ)きや小木の道南でのイカ漁といった、今日まで続く遠隔地漁業を生んだ。さらに、越後の堤商会(現、ニチロ)のような近代漁業資本の母体も生み出した。
海面養殖業では、三重県がその伝統的地域性を温存しており、1996年の品種別漁獲量の都道府県別割合でみると、マダイ(14%)で愛媛に次ぐ。真珠(20%)でも愛媛、長崎に次ぐ地位を保持している。的矢(まとや)カキで有名なカキも全国第5位(2%)の地位にある。また、板海苔(いたのり)でも6位の愛知に次いで全国第7位に位置する。
内水面養殖業では、明治以来の浜名湖の養鰻(ようまん)業が全国的に有名であるが、静岡県内の主産地は吉田に移り、全国的な養鰻業の中核は愛知県の西尾市一色町(いっしきちょう)地区になった。浜名湖はむしろスッポン養殖の中心になりつつある。ウナギの収獲量では、愛知(32%)、鹿児島(29%)にも抜かれ、静岡(14%)は3位である。このほか、特色ある中部の内水面漁業としてはマス類があり、長野、静岡、山梨が上位を占める。コイの養殖では、長野が全国第5位の地位を占める。
[宮川泰夫]
中部圏は日本の中央部に位置し、古くから東西を結ぶ交通・通信路の発展をみてきた。律令体制下での五畿七道(ごきしちどう)の体制が確立するにつれ、京都から太平洋岸の東海道では常陸(ひたち)の筑波山(つくばさん)までの中路が、東山道では太平洋岸の多賀城(たがじょう)と日本海岸の出羽柵(いではのき)へと中路が開設されたが、京都から九州の太宰府(だざいふ)に向かう大路に比べその整備は遅れた。中央日本の陸路の整備は蝦夷(えぞ)への東征や平泉の藤原氏の繁栄につれ徐々に進展したが、鎌倉幕府の開設、京都六波羅探題(ろくはらたんだい)との連携の強化につれ、いわゆる鎌倉街道の確立をみている。
海路も倭寇(わこう)の拡張をはじめとした造船技術や操船技法の発達から内航海運も発展し、室町時代には北陸では越後の蒲原津(かんばらのつ)から酒田を経て津軽の十三湊(とさみなと)にまで及び、越後の寺泊(てらどまり)、直江津(なおえつ)、金山開発の重要性も増した佐渡、越中(えっちゅう)の新湊(しんみなと)、氷見(ひみ)、能登の輪島、越前(えちぜん)の三国湊、敦賀(つるが)が小浜(おばま)との間で栄え、今日の主要港湾配置の基礎が築かれている。太平洋岸でも、東海は堺(さかい)から塩竈(しおがま)まで伸びた航路の中間を占め、伊勢の大湊、桑名、その間の安濃津(あのつ)、三河の大浜、遠江の掛塚(かけつか)、駿河(するが)の清水、沼津などが、小田原や鎌倉近郊の和賀江の間で栄えた。江戸と京都、大坂を結ぶ東海道、中山道、甲州街道を含む五街道の整備は、中央日本のなかでも太平洋岸の陸路整備と相まって、今日まで続く地域構造の基本を築くこととなり、東海道メガロポリスの萌芽(ほうが)につながった。この反面、東回り航路の寄港地から離れた伊勢湾や駿河湾では、内貿港湾の発達は江戸時代には弱かった。
開国に伴い、新潟や四日市が開港場に指定され、汽車、自動車といった新たな交通手段が導入されると、中部における陸海の交通体系に変化がおきた。また、1872年(明治5)には東京・大阪間に電信が開設され、以後、電信・電話網が整備されていくが、東海道本線の全線開通(1889)が北陸本線の全線開通(1913)より早かったのと同様に、通信網の整備も東海は北陸より優先された。
国際貿易港としては、1907年に名古屋市や愛知県が国の許可を待たずに熱田港(あつたこう)(名古屋港)の築港を進め、関東大震災を契機に1923年(大正12)ごろには名古屋が四日市にとってかわって国際貿易港の地位を固めた。さらに1930年(昭和5)に名古屋港と名古屋駅の間に中川運河が開削されると、名古屋は陸、海の東海道メガロポリスの要衝となった。
第二次世界大戦後も戦前の計画を受け継ぎ、東京オリンピックの開催された1964年に東海道新幹線が開通、さらに1969年名神高速道路に接続した東名高速道路が開通して、東海道の高速交通幹線は完成した。中央自動車道も、1976年には高井戸―河口湖町(現、富士河口湖町)間が開通し、1982年大月―小牧間が開通、小牧で名神自動車道と接続して高井戸―西宮間が結ばれた。北陸に向けては、1982年に大宮―新潟間で上越新幹線が開通し、1985年には関越自動車道(練馬―長岡間)が開設された。しかし新潟―米原(まいはら)間の北陸自動車道が開通するのは1994年(平成6)まで待たねばならなかった。東海と北陸を結ぶ東海北陸自動車道も福光(ふくみつ)―礪波(となみ)間が1992年、各務ヶ原(かかみがはら)―美並(みなみ)間が1994年に開通し、2008年(平成20)の飛騨清見―白川郷間の開通により全線開通した。1998年の長野オリンピックは、こうした東京を中心とした交通・通信体系の整備を一段と進め、北陸(長野)新幹線や上信越自動車道、長野自動車道を完成させ、他の地域でも1997年の安房(あぼう)トンネルをはじめ難所の整備によって高山(たかやま)や上高地など観光地への交通・通信体系が大きく進展した。
東海地方では、第一東海自動車道(東名)に続き第二東海自動車道の部分的開通がみられ、その一部をなす名古屋港を横断する架橋も完成した。1993年には東名阪自動車道と東名高速が接続した。また、2005年2月には、名古屋南約30キロメートルの常滑(とこなめ)市沖の伊勢湾上に中部国際空港が開港し、セントレアライン(知多横断道路・中部国際空港連絡道路)が開通したほか、名古屋都心部と中部国際空港が名古屋鉄道(名鉄)空港線の特急(名鉄空港特急ミュースカイ)により最速28分で結ばれるなど、交通・通信体系の整備も行われた。さらに、東海道新幹線を補完するための中央リニアの実験線も開設され、両者が交差する予定の名古屋駅では新しい中部のランドマークとして地上245メートル、ツインビルのJRセントラル・タワー(複合開発ビル)が1999年12月に開業した。駅別の収入でも名古屋、東京、新大阪が突出しており、東海道新幹線を営業の主体とする東海旅客鉄道(JR東海)では1997年にはその輸送力強化を図って、品川新駅建設に着手、2003年開業した。
名古屋都心部の変化としては、副都心の金山(かなやま)に総合駅が建設され、隣接して名古屋ボストン美術館も入る金山南ビルが開設された。ここには、名古屋大都市圏の基幹鉄道をなしてきた名鉄と名古屋市営の高速鉄道(地下鉄)が乗り入れており、乗降客数で浜松駅を上回っている。名古屋も名鉄や近鉄との接続が改良された地下鉄に加え、都市高速道路が整備され、東京、大阪に次ぐ大都市としての風格を備えてきた。
次に道路の舗装率(簡易舗装含む)を指標としてみると(1996)、中部地方では福井(88.4%)がもっとも高く、愛知(85.7%)を上回っている。その比率がもっとも低いのは長野(66.3%)で、これに岐阜が続き、三重や山梨とともに山岳地域の道路整備の遅れを示している。
大規模コンテナ輸送の要(かなめ)をなす中枢国際港湾も国際空港も、名古屋大都市圏に立地している。名古屋港の総取扱貨物量は近年、日本一の座を保ち続けている。加えて古くからの四日市国際拠点港湾がある。また最近流通加工業の立地が目覚ましい重要港湾の三河港や衣ヶ浦(ころもがうら)(衣浦(きぬうら))港が伊勢・三河湾に展開し、国際拠点港湾・中核国際港湾の清水港、新潟港がある。名古屋空港は、滑走路は1本で、3本もつ新潟空港と同じ第2種空港であるが、その航空路は世界に及び、国際線旅客数では第1種の成田、関西国際空港に次ぐ地位にあり、国際航空路の要衝をなし、国内航空路と国際航空路が接続する重要な拠点空港であった。しかし航空需要が増大するなか、空港容量・利用時間の制約などの課題を抱えていたことから、24時間利用可能な国際空港としての機能を十分発揮できる新空港の建設が計画され、2005年2月中部国際空港(第1種空港)が開港した。名古屋空港の定期航空路線はこの新空港に一元化され、名古屋空港はコミューター機やビジネス機など小型機の拠点空港となっている。新潟空港は第3種の富山空港や富士山静岡空港(2009年開港)、自衛隊との供用空港の小松空港と同様に国際航空路を保持しているが、2006年の乗降客数では名古屋からコミューターが開設されている富山、小松が新潟を上回っている。中部ではこれらのほかにジェット機が就航できる第3種の松本空港、能登空港、現在定期便の就航していない佐渡空港、福井空港がある。
通信による地域間の関連は、1998年の電話総発信量からみると、愛知(39億3800万回)が東京、大阪、神奈川(43億7400万回)に次いで第4位である。中部では以下静岡、新潟、長野、岐阜の順となり、これら以外の県は10億回を下回る。中部の諸県はいずれも県内が通話先として第1位であるが、第2位に東京が位置するのは新潟、山梨、長野、静岡である。第2位に愛知が位置するのは岐阜、三重で、石川が位置するのは福井、富山である。滋賀は京都が第2位となり、それぞれの地域性と大都市圏の構造を反映している。
[宮川泰夫]
中部地方の人口は、2502万人(2005)で、全国の19.6%を占める。県別では、愛知が725万人と東京、大阪、神奈川(879万人)に次ぎ、全国第4位である。人口密度では、愛知(1405人/平方キロメートル)はすでに東京、大阪、神奈川だけでなく、埼玉(1858人/平方キロメートル)にも抜かれている。しかも愛知の人口集中地区割合は75.5%と、東京、大阪、神奈川、京都、埼玉(78.9%)を下回っている。これは、名古屋大都市圏における市町村合併をめぐる愛知県と政令指定都市名古屋との相克に加え、戦時の計画による挙母(ころも)(豊田)、岡崎、岐阜、四日市といった工業建設地区指定にみられる周辺都市の自立や、瀬戸、一宮をはじめとする地場産業都市の発達による。
年平均人口増加率をみると、愛知(2位)、滋賀(4位)、三重(10位)は増加しているが、他は減少している。出生率も滋賀(9.5%)は沖縄に続いて全国2位で、これに愛知が続く。65歳以上の高齢人口率は、新潟(23.9%)、長野(23.8%)が比較的高く、愛媛にほぼ並んでいる。
次に産業人口比率をみると、第二次産業比率が高いのは富山(34.8%)を筆頭に岐阜、静岡、愛知、滋賀と続き、福井、三重、新潟、長野、山梨、石川の各県も全国平均(26.1%)を上回り(2005)、特色ある圏域を形成している。
1996年(平成8)に人口30万以上、面積100平方キロメートル以上などの要件を備えた都市に政令指定都市並みの権限を与える中核市の制度が開始され、北陸の新潟、富山、金沢、東海の岐阜、静岡、浜松が、宇都宮、堺(さかい)、姫路(ひめじ)、岡山、熊本、鹿児島などとともに指定された。こののち中部地方では、1998年豊田市、1999年長野市、豊橋市、2003年岡崎市が追加指定された。これら諸都市から、2005年静岡市が、2007年浜松市、新潟市がそれぞれ政令指定都市となった。
[宮川泰夫]
中部地方には、年代測定から9500~7500年前と推定される三ヶ日(みっかび)人や、尖石(とがりいし)などの縄文遺跡に加え、瓜郷(うりごう)、登呂(とろ)などの代表的弥生遺跡(やよいいせき)があり、古くから開けた地域であった。社会文化的にも古くから東西の境界帯をなし、縄文式土器の東西の文化相の境界にはじまり、大和国家の形成期においては、伊勢、熱田、猿投(さなげ)神社に象徴されるように、その東国に対する権威、権力、技術の面での砦(とりで)の役割を果たしてきた。東海道の鈴鹿(すずか)、東山道の不破(ふわ)、北陸道の愛発(あらち)の三関以東が古代には関東と称された。
前述したように、『延喜式(えんぎしき)』では、若狭(わかさ)、美濃(みの)、尾張(おわり)、三河が大和の近国をなし、遠国の越後(えちご)、佐渡の間に10か国の中国(ちゅうこく)が配置された。この時代の国府、国分寺の配置は、そのすべてが今日の都市体系や地域構造に影響を与えているわけではないが、歴史的遺産として地域の文化的支柱となっているものも少なくない。この時代の勅旨牧(ちょくしまき)(御牧(みまき))32のうち、信濃(しなの)に16、甲斐(かい)に3が置かれ、今日まで続く木曽駒(きそこま)の源流をなしている。
鎌倉時代に入ると、三河の足利(あしかが)、甲斐の武田と、室町・戦国時代へと転換する守護があらわれ、戦国時代を終焉(しゅうえん)させる織田、豊臣、徳川の三氏が尾張、三河に現れた。織田は、北陸と京都、東海の間に位置し、琵琶(びわ)湖に面した安土(あづち)を、豊臣は京都と淀(よど)川の水運で結ばれ、日本と海外の要(かなめ)をなす大坂を、そして鎖国を断行する徳川は日本の新たな中枢としての江戸(東京)を拠点とした。いずれも中京に中核を築くことなく、中京の回廊性をいっそう強めた。江戸時代は各藩の殖産政策や開墾、干拓も遂行されたが、尾張、加賀、富山以外は頻繁に大名の配置転換を行ったこともあって、尾張、加賀の大藩の発展が目だった。
明治維新以降は、1886年(明治19)に福島県より東蒲原郡(ひがしかんばらぐん)を新潟県が受け継いだのを最後に県域が確定した。1888年の市町村制の公布、1889年の東海道線の開通、1890年の府県制・郡制の公布による大日本帝国憲法下での地方自治が確立するころには、今日の中部地方の基本的地域構造が形成されている。
1878年に三河に開設された官営の愛知紡績所は、東海の繊維工業にある程度の刺激は与えたものの、1896年に廃止されるに至り、その工業化の原動力としては再生糸業にも劣った。1907年の名古屋港の開港、1923年(大正12)の東京、大阪の支廠(ししょう)の合併による名古屋工廠の設立で名古屋のいちおうの中心性は確立した。しかし、教育面では立ち後れた。金沢では、1886年に第四高等学校が、1901年に金沢医学専門学校が開学されているのに比べ、名古屋高等工業学校は1905年、第八高等学校の開設は1908年であり、名古屋帝国大学の発足は1939年(昭和14)で、仙台、福岡、札幌の帝国大学創設より遅く、また、大本営が日清戦争に際して置かれ、陸・海軍の軍事拠点となっていた広島に比べても、名古屋の中部圏全域での都市的中核性や東海での中枢性は強くなかった。
ところで、名古屋工廠と陸軍各務ヶ原(かかみがはら)第二航空隊は、中京を航空機産業基地としただけでなく、当時の大岩勇夫(おおいわいさお)名古屋市長の主導した中京デトロイト化計画を契機とした自動車工業をも生みだした。大岩市長は猿投(さなげ)(現、豊田市)生まれであった。その拠点となった挙母(ころも)(豊田)は岡崎とともに1942年の「工業規制地域および工業建設地域に関する暫定措置要綱」で工業建設地区とされ、四日市、岐阜・大垣、静清(せいしん)(静岡・清水)地域とともに軍需工業基地として育成された。1943年の「中央計画素案・同要綱案」では、名古屋市とその周辺は大都市地域とされた。
1946年の復興国土計画では、名古屋は連坦(れんたん)都市域の京浜、阪神とともに第一級都市とされた。1950年の「国土総合開発法」に基づき1956年に閣議決定された特定地域総合開発計画では、資源開発、国土保全の天竜・東三河(1935~1962)、資源開発の能登(1955~1964)、飛越(1956~1965)、資源開発と国土保全に工業立地条件整備を加えた木曽(1956~1965)が設定された。また、中央日本の中部を横断する飛越、木曽、天竜・東三河の電源開発地帯が確立し、大規模ダムや愛知、豊川、濃尾(のうび)などの大規模用水の基盤が築かれた。大都市名古屋は、1946年に戦災復興土地区画整理事業に着手し、1953年の「町村合併促進法」に基づく自治庁長官の裁定で、1955年に周辺6町村を合併し、1956年に政令指定都市となった。
所得倍増計画と貿易自由化が決定された1960年の建設省(現、国土交通省)の広域建設圏構想で、東京、名古屋、大阪の都市連坦を重視した中央臨海部広域建設圏が設定され、中央日本とその根幹をなす東海道メガロポリスが計画地域としても明確に提示された。1960年の「東海道幹線自動車国道建設法」、および1961年の「水資源開発促進法」公布と水資源開発公団(現、水資源機構)による愛知・豊川用水の大都市圏用水としての一元管理、1964年の東京オリンピック開催と東海道新幹線開通、1970年の大阪万国博覧会開催は、東海道メガロポリスの構造に大きな影響を与えた。これに対して北陸は、1957年の「東北開発促進法」で新潟が、1960年の「北陸地方開発促進法」で富山、石川、福井が開発計画を立案、実践し、甲信の山梨は、1956年の「首都圏整備法」で首都圏に組み込まれ、甲府を中心に都市開発区域の設定を受けている。
1961年の「低開発地域工業開発促進法」の公布は、十日町、中能登、小浜(おばま)、伊那谷(いなだに)、小諸、高山、恵那(えな)など、北陸や甲信、飛騨(ひだ)や木曽の山岳・過疎地域での低開発地域工業開発区に影響をもたらした。さらに、1962年の「新産業都市建設促進法」、1964年の「工業整備特別地域整備促進法」といった一連の工業地域開発関連法の公布は、富山・高岡、松本・諏訪(すわ)の新産業都市、東駿河湾(ひがしするがわん)、東三河の工業整備特別地域の工業化にも多くの影響を与えた。とくに工業整備特別地域では、公害反対運動や石油危機、円の変動相場制移行での産業構造転換が臨海工業開発を挫折(ざせつ)させ、今日の先端産業や流通加工業集積の基盤を提供する結果となったことには十分留意する必要がある。1962年の「豪雪地帯対策特別措置法」、1965年の「山村振興法」は1953年の「離島振興法」とともに、山岳、離島を有する中部でも過疎地域の生活基盤整備に寄与した。
1963年の「近畿圏整備法」は、滋賀、福井、三重をその圏域に包含し、開発整備法の対象地域外となった東海3県と長野県を刺激し、1964年の国際連合地域開発調査団の報告をも活用した議員立法による「中部圏開発整備法」公布(1966)につながった。この時点で新潟と山梨は法制の中部圏外となった。しかし、1965年の「地方行政連絡会議法」による協議会も東海と北陸は別個に設置され、北陸、東海、近畿の一部重複した併存的計画地域構造は温存された。そして、1964年の「東海北陸自動車道建設法」に基づき1972年に事業化された自動車道は四半世紀たったいまも完成されていない。
こうした構造は、1970年の「過疎地域振興特別措置法」、1971年の「農村地域工業等導入促進法」でも是正されず、1967年の「公害対策基本法」、1970年の「水質汚濁防止法」、1972年の「自然環境保全法」が公布され、四日市公害裁判の判決で地域開発の根本が問い直された1972年に、「琵琶湖総合開発特別措置法」が公布された。
地域としては、1985年の「半島振興法」、1987年の「総合保養地域整備法」(リゾート法)が臨海、山岳の保養地域開発を促す一方、その失敗による地域問題の深刻化をももたらした。1988年の「多極分散型国土形成促進法」による振興拠点地域として、北勢の三重ハイテックプラネット、東濃研究学園都市、静岡生活産業拠点が設定され、四日市、多治見、静岡といった名古屋大都市圏の外郭都市が強化された。1983年の「高度技術工業集積地域開発促進法」による浜松、甲府、富山などのテクノポリス地域に次いで、1988年の「地域産業の高度化に寄与する特定事業の集積の促進に関する法律」で、浜松、甲府、富山は、石川、岐阜とともに頭脳地域に指定され、中部の産業構造革新の中核となっていった。
なお、1992年(平成4)の「国会等の移転に関する法律」の公布は、首都東京の300キロメートル圏域の両翼にあたる北の北東地域と中部・中央地域を調査対象地域とし、これまで首都となったことのなかった中京に、首都移転を契機とした世界に開かれたワールド・メガロポリスの要(かなめ)となりうるかどうかの試練を与えている。
[宮川泰夫]
山地の多い中部地方では、近代以降もカンノなどとよぶ焼畑耕作が行われたり、トチの実をさらしてトチモチをつくったり、ナラの実を貯蔵したりする所もあった。穀類の不足しがちなこうした山村では食糧の確保にさまざまなくふうがなされ、とくに石川県の白山麓(はくさんろく)の一山村では、冬になると口減らしと食糧を得るために、親子で平地の村の家々を回り、なんら代償を与えることなく物をもらい、それを家に送ったという。山深い里には山姥(やまうば)の伝説や平家の落人(おちうど/おちゅうど)集落の伝承が残されており、長野県の秋山郷などもそうした伝承をもつものとして有名である。また、大家族制などといわれる拡大家族・複合家族による生産様式は、厳しい自然環境の中で岐阜県の白川郷(しらかわごう)、富山県の五箇山(ごかやま)などにおける合掌(がっしょう)造の家を生んだ。豪雪地帯では冬期間の仕事はいっさい母屋(おもや)の中ですますようにくふうされたし、流水を屋敷内に引き込んでタネとよぶ融雪設備をつくっておく所もある。
深い山から流れ出る川は長大なものが多く、舟運や運材に利用されたし、沖積平野は豊かな穀倉地帯をなし、大地主も出現した。新潟県では鍬(くわ)を鍛冶(かじ)屋が農家に貸す貸鍬(かしくわ)の制度がみられた。信濃(しなの)川、阿賀野(あがの)川下流の低湿地帯ではしばしば水害にみまわれたので、倉や母屋は土台を高くした「ジギョウ」の上につくったし、木曽(きそ)川下流域でも石垣の上に水屋をつくり、屋敷や集落の周りに堀をつくって洪水に対応した。静岡県では船形屋敷をつくって洪水に備えた。
こうした厳しい自然の中で生活する人々には、豊作を祈る気持ちがより強い。石川県能登地方では、秋の収穫が済むと、「あえのこと」といって家の主人が田から田の神を家に迎えてきて接待をする。旧暦10月10日に田の神を祭るのは中部地方諸県にみられ、長野県ではカカシアゲといって、案山子(かかし)を田から迎えてきて庭先などに祭る。また田の神と山の神との交替の伝承も各地にみられる。したがって山の神は農村において、各戸で祭るほか、地域や仕事仲間や同齢者でも祭る。しかし、猟師の祭る山の神には田の神の要素は認められず、長野県の伊那(いな)谷にはキューセン山の神という祟(たた)りをする山の神も伝承されている。姿などが特異な山は霊山とされた。富士山を対象とする浅間信仰(せんげんしんこう)は、近世に富士講を組織し、木曽御嶽(おんたけ)山を対象とする御嶽講も各地に広がった。富山県の立山信仰(たてやましんこう)は仏教的な地獄・極楽の信仰を取り込み、石川・福井・岐阜の3県の県境にそびえる白山に対する信仰は、中世に北陸一帯に広がった。これらのほかにも、火伏せの信仰としての秋葉(あきば)講、雨乞(あまご)いを中心とする戸隠(とがくし)講など、山や社寺を中心に各地にさまざまな講が組織され、宗教者の活動や代参が広く行われた。
民間信仰としての道祖神信仰は中部地方で特徴的な展開をし、新潟、長野、山梨、静岡などの関東地方と隣接する地域では、小正月(こしょうがつ)の火祭を道祖神の祭りとすることが多く、男女双体の像を刻んだ碑も多い。しかし、伊豆地方には単体丸彫りの像が、山梨県には丸石のものが多くみられる。また事八日(ことようか)の厄神去来の伝承と結び付いた伝承も見られるとともに、その祭祀(さいし)起源を兄妹婚と絡めて伝承する地域がある。夏季に山車(だし)を伴う祭りを行う所もある。ただし、北陸地方は浄土真宗の影響が強いためか、こうした民間信仰は比較的少ない。しかし報恩講(ほうおんこう)などの仏教的な講行事が盛んである。また在家報恩講などでは、村人が講長(こうおさ)となり、葬儀に関与する所もある。そのほか民俗化した宗教儀礼などもみられる。
季節ごとの祭日には、その土地に古くから伝わる芸能が神社に奉納される。愛知、静岡、長野にまたがる地域では中世の田楽(でんがく)の系統を引く芸能や、湯立神楽(ゆだてかぐら)が行われ、神々を迎えて豊穣(ほうじょう)を祈る祭りは各地の神社でも行われる。高山市の祭り屋台(やたい)は、飛騨匠(ひだのたくみ)として全国にその名を知られた人々の作品であり、町の文化を示す華やかなものである。愛知県の津島神社の祭りは、京都の祇園祭(ぎおんまつり)とともに、その形式が各地に伝わり、夏祭として町を中心に定着し周囲の村々にも影響を与えたが、それは華やかな山車(だし)・曳山(ひきやま)・屋台などを伴うものである。7年に一度行われる長野県の諏訪(すわ)の御柱祭(おんばしらさい)は巨木を曳(ひ)き出して立てる祭りである。
海岸近くに住む人々は、漁期には漁を行うのは当然であるが、舳倉島(へぐらじま)の海女(あま)のように、夏季だけ輪島から島に移住して潜(もぐ)り漁をするものもある。こうして得られた海の幸や塩は、中馬(ちゅうま)やぼっか(歩荷)によって山里に運ばれていった。
[倉石忠彦]
中部地方の民話は、民俗学の草創期から活発な収集がなされた。それらは大正年間刊行の炉辺叢書(ろべそうしょ)『三州横山話』(愛知)、『小谷(おたり)口碑集』(長野)、『越後(えちご)三條南郷記』(新潟)などに収められた。中部地方で特筆すべきは、新潟県の豊かな伝承状況である。1人で100話以上を確実に管理している語り手は、近ごろまで20名を超して県下に健在であった。それらの民話は、古い伝承心意を今日に伝え、農耕儀礼と深く結び付いた伝承形式が残されている。「笠地蔵(かさじぞう)」「見るなの座敷」「猿婿(さるむこ)入り」「猿と蝦蟇(がま)の寄合餅(よりあいもち)」「お月お星」「米福糠福(こめぶくぬかぶく)」ほか多くの語りが報告されている。雪の多い土地柄がいろり端での語りを盛んにしたものと思われる。この傾向は飛騨の山間地帯にもみられる。雑誌『ひだびと』に早くからその様相は示された。「魚(うお)女房」「味噌買橋(みそかいばし)」「古屋の漏り」「手無し娘」「牛方山姥(うしかたやまうば)」などは古くから好まれた話型として知られる。
岐阜県下にみられる特徴は、「十二支の由来」「肉付面(にくづきめん)」「小鳥前生(ぜんしょう)」など宗教色の濃厚な語り口である。これは中部地方全域にわたる特色でもある。とくに福井・石川・富山各県は真宗地帯ということもあって、仏教色に彩られた民話が多い。妊婦が死んで埋葬されたあと、幽霊となって飴(あめ)、団子、餅などを買いにきて、土中で子を育てるという筋(すじ)の「子育て幽霊」は、とりわけ名をはせる語りである。墓中から声がして掘り起こすと赤子が生きており、飴屋などが扶育するが、後日高名な人物に成長する。如幻(じょげん)、学信(がくしん)、梅隠(ばいいん)、頭白(ずはく)などの高僧伝として語られている。とくに福井・石川県下には寂霊通玄(じゃくれいつうげん)の開創寺院説話として定着している。静岡県下にあっては、通玄十哲の流れにある通円がおこした子育観音の縁起伝承も、この話型に結ばれている。説教僧や勧進比丘尼(かんじんびくに)の巡国が、これらの伝播(でんぱ)に大きな影響を与えたことが知られる。若狭の「八百比丘尼」は、話を語る者と語りの内容が渾然(こんぜん)一体となって伝説化した顕著な例である。富山県では、各地に説教僧を迎えて話を聴く説教道場が残されている。礪波(となみ)地方では村内に2、3か所そうした場所があって、毎月説教僧が回ってきて話をした。それは報恩講様(ほんこさん)とよばれて、村人の娯楽として楽しみにされたことが知られる。それら唱導者から享受した語りのなかには、イソップの話型なども含まれている。「カニの横這(よこば)い」を主題にした『伊曽保(いそほ)物語』所収「がざみ(ワタリガニ)の事」の波及をみるなどは、注目すべきことである。
こうした機知に富んだ珍しい話柄(わがら)は、宗教者のほかに芸人、商人、職人など世間を渡る職掌の人々にもてはやされた。交通繁多な街道筋や、それらの人々が足留まりにした宿場には、今日も話題性に富む短い話型が多く残る。焼津(やいづ)や伊豆の海村部には、漂着した舟乗りが残したという「ソラ豆の筋の由来」「金の瓜(うり)」などが世間話化して残されている。一方、甲州商人として他郷に赴く山梨県には、珍しい話柄が集まっている。行商人として遠隔の地に足を向ける生活が、その地にある話をこの山間地帯に運び込んできた。珍しい話の主題が世間話化し、弾力的な表情をもつのも、この地方の特色であろう。南島に分布する「魚の珠(たま)」が語られる理由も、広く世間に生活の場を得た甲州ならではのものといえる。信州は10州に境を連ねるとされる土地にふさわしく、語りの様相は多様である。往還の要衝になった街道には、軽妙な語り手の存在がある。塩を運んだ古街道には、海村の「浦島太郎」「竜宮女房」「くらげ骨なし」などの話が古態を残しながら伝わる。他方、山間地帯には厳しい糸繰りや紙漉(かみす)きの生業が語りを放逐したようすもみえる。民話における語りの糸が衰微する傾向をみせている。しかし、山岳信仰を基底にもつ「猿神退治」「猿婿入り」「食わず女房」「木魂(こだま)婿入り」などが伝説化して残される。更級(さらしな)地方に、古民俗と密着して伝説となった「親棄て山(おやすてやま)」(姨捨山(おばすてやま))や光前寺の「早太郎」は、この地方を代表する民話として知られる。
[野村純一]
『『図説日本文化地理大系 中部Ⅰ~Ⅲ』(1961~1963・小学館)』▽『『日本の地理4 中部編』(1961・岩波書店)』▽『大明堂編集部編『新日本地誌ゼミナールⅣ 中部地方』(1985・大明堂)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌9巻 中部地方』(1987・二宮書店)』▽『宮川泰夫著『平和の海廊と地球の再生Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(1997・大明堂)』▽『宮川泰夫著『国際工業配置論 上・下』(1988、1989・大明堂)』▽『宮川泰夫著『工業配置論』(1977・大明堂)』▽『ジャン・ゴッドマン著、宮川泰夫訳『メガロポリスを超えて』(1993・鹿島出版)』▽『『日本の民俗』全47巻(1971~1975・第一法規出版)』▽『『日本の民話』全75巻別4巻(1957~1980・未来社)』▽『『日本伝説大系7 中部編』(1982・みずうみ書房)』▽『『ふるさと伝説の旅 5中部・6北陸』(1983・小学館)』▽『網野善彦ほか編『日本民俗文化大系 全14巻・別巻1』(1994・小学館)』▽『『日本民俗調査報告書集成 中部・北陸の民俗』全6冊(1997・三一書房)』▽『『日本民俗誌集成 中部編』全3冊(1996~・三一書房)』
日本列島の中央部にあり,関東・近畿両地方の中間に位置する地方。中部地方が地域区分の単位として初めて使われたのは明治30年代の国定教科書においてである。律令制時代から用いられてきた〈道〉の地域区分のうち東海道の愛知(尾張,三河),静岡(遠江,駿河,伊豆),山梨(甲斐)の3県,東山道の岐阜(美濃,飛驒),長野(信濃)の2県,北陸道の福井(若狭,越前),石川(加賀,能登),富山(越中),新潟(越後,佐渡)の4県,計9県の地域が中部地方と呼ばれるようになった。その後1966年に中部圏開発整備法が制定されたのを機に,上記の新潟,山梨県が抜け,代りに三重,滋賀県が新規参入して新たな中部圏ができあがった。2010年現在,面積は約6.7万km2,全国総面積の約18%,人口は約2175万,総人口の約17%に当たる。人口密度は325人/km2で,全国の平均人口密度339人/km2よりやや低い。
本州で最も陸の幅の広い地域であるとともに,敦賀湾と伊勢湾の間は本州の最狭部になっている。垂直的にも対照的な形状を示し,日本の最高峰富士山(3776m)をはじめとして飛驒,木曾,赤石の各山脈には3000m級の高峰がそびえる一方,濃尾平野南部は日本列島の標高最低地域であり,0メートル地帯の面積は約274km2に及んでいる。日本列島を西南日本と東北日本に二分する地質構造線の糸魚川-静岡構造線が走っており,その西側は飛驒,木曾,赤石の各山脈の高山域が卓越しているのに対して,東側は第三系を主とする低山地,丘陵と火山群からなる地帯を形成している。平野や盆地には,越後(新潟)平野や濃尾平野のように低湿地を含むもの,富山平野のようにゆるやかな扇状地式三角州をなすもの,東海地方の海岸部のように牧ノ原,三方原など新期の隆起性台地が発達するもの,甲府盆地,伊那盆地,松本盆地,長野盆地のように周辺の山地に大規模な扇状地を発達させているものなど変化に富んでいる。気候のうえでも,冬季に世界的な豪雪地帯で知られる日本海側と,冬季に温暖・快晴の日が続く太平洋側のように両極端の様相がみられる。その中間の中央高地は比較的寒冷な気候で,酷暑の続く日本の夏季にとって貴重な避暑地になっている。
中部地方は長い歴史を通じて東・西日本の接触地帯であり,文化交流の回廊としての役割を果たしてきた。7世紀後半の律令国家の成立とともに,耕地の地割りである条里制が施行され,その遺構は美濃,尾張,越前などの平野部に顕著である。中部地方は東海道に6国府,東山道に3国府,北陸道に7国府が設置され,中部地方全域の行政が京畿内と直結したものとなった。8世紀後半から成立し増加していった荘園もその多くは畿内の貴族,寺社の占有するところであった。古くから東海道,東山道,甲州道中が通じ,京畿内との交流が盛んであったが,鎌倉時代には東山道の美濃から東海道へと通じる街道,あるいは甲斐を経て信濃や北陸地方を鎌倉につなぐ街道など,いわゆる鎌倉街道が設けられ,東国との交流も活発となった。戦国時代には甲斐の武田信玄,越後の上杉謙信,駿河の今川義元らの群雄が割拠するなか,全国統一の先鞭をつけた織田信長,それにつづく豊臣秀吉,徳川家康は尾張,三河を根拠地として活躍した。江戸時代は天領,親藩,譜代大名の領地が多く設けられたが,日本の中心地域となるには至らなかった。明治以降,東海道本線,中央本線,北陸本線が全通し,さらに第2次大戦後,東海道新幹線や高速自動車道路の整備が進められるにしたがって,ますます東西文化の中間・通過地帯としての性格を強めてきている。
中部地方の産業構造は,第1次産業や第3次産業に対するよりも第2次産業に対する特化の度合が強い。第2次大戦前までは近世以来の伝統をもつ窯業,綿織物など軽工業の比重が高かったが,戦後は比較的良質な用地,用水,労働力が存在するなどの好条件に恵まれて発展し,1994年現在中部地方全体で全国の製造品出荷額の27%を占めるに至った。東海地方では鉄鋼,石油化学の名古屋市,四日市市,自動車の豊田市を核とした中京工業地帯,楽器,製紙に特徴のある静岡県の東海工業地帯が発達している。北陸地方では水力発電と天然ガスの資源を利用して肥料,合繊などの化学工業,金属工業が盛んである。中央高地ではカメラ,時計などの精密機械工業が発達している。農業においては,高度経済成長期以降兼業化が著しく進むなかで,東海地方では施設園芸,北陸地方では早場米の水稲単作,中央高地では高冷地農業に力が入れられている。第3次産業では運輸,通信,商業,サービス業のウェイトが小さいのが特徴である。商業についてみれば,関東地方や近畿地方と異なって名古屋市の商業的支配力が中部地方全域には及んでいないこと,両隣の東京,大阪の影響力がかなり強くなっていること,北陸4県はやや独立的色彩を有していることなどの特色をもつ。
大都市圏整備制度の一環として,1956年の首都圏整備法,63年の近畿圏整備法につづいて,66年に制定されたのが中部圏開発整備法である。この基本方針は,首都圏と近畿圏の中間に位置する地域としての機能を高めるとともに,南北方向の新しい圏域軸の形成を進め,中部圏の骨格を構築するといった一体的な圏域構造づくりにある。この中部圏の具体的政策区域として,産業開発の程度が高い名古屋市とその周辺が都市整備区域,当該地域の発展の拠点となる各県庁所在地近辺が都市開発区域,観光資源,緑地,文化財を保護する必要がある山間部・半島部が保全区域に設定された。そして,従来の産業至上主義の開発から,地域の文化的・自然的・風土的特性をいかした開発に力点が移された。87年の第4次全国総合開発計画では,〈名古屋圏〉が〈東京圏〉〈関西圏〉と同列に扱われ,名古屋に世界的中枢機能が期待されるとともに,北陸地方に自立性の確保が求められ,新たな中部圏の枠組みができあがりつつある。
執筆者:溝口 常俊
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