明治十四年の政変(読み)めいじじゅうよねんのせいへん

精選版 日本国語大辞典 「明治十四年の政変」の意味・読み・例文・類語

めいじじゅうよねん‐の‐せいへんメイヂジフヨネン‥【明治十四年の政変】

  1. 明治一四年(一八八一伊藤博文井上馨らの漸進派が、国会開設の時期をめぐって対立していた即時開設派の大隈重信一派を、開拓使官有物払下事件をきっかけとして追放した事件。これにより、薩長藩閥政府が確立した。

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改訂新版 世界大百科事典 「明治十四年の政変」の意味・わかりやすい解説

明治14年の政変 (めいじじゅうよねんのせいへん)

明治14年(1881)10月,薩長藩閥政府の専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道を確定した政変。その具体的内容としては,(1)開拓使官有物払下げの中止,(2)10年後の国会開設の公約,(3)参議大隈重信一派の追放などがあげられる。

 1879年末から翌年にかけて,伊藤博文,井上馨以下の諸参議は憲法意見書を奏上していた。そのころ,自由民権運動もしだいにその基盤を広げるとともに,80年3月の第4回愛国社の大会を国会期成同盟へと改組し,国会開設を運動の主要目標にしはじめていた。太政官に提出された〈国会を開設するの允可を上願する書〉には,天賦人権論にもとづく参政権,徴兵義務・地租納入にともなう政治的権利の獲得,財政危機の克服,国権の確立等の実現のために国会を開設せよ,とうたわれていた。政府は集会条例(1880年4月公布)によって運動の取締りを強化したが,同年11月の第2回国会期成同盟の大会は,その団結や実力養成を標榜するとともに,政党組織や憲法案の研究が課題とされ,豪農商層を中心とした民権運動はいちだんと国会開設要求を強めつつあった。

 1881年1月,伊藤博文,井上馨,大隈重信の3人の参議によるいわゆる熱海会議がもたれた。自由民権運動に対応して,国会開設や新聞発行などをめぐって意見が交わされたのである。しかし,具体的構想については必ずしも意見は一致しなかった。伊藤,井上の慎重論に対して大隈は急進論を唱えていたからである。その大隈が,督促によって3月,左大臣有栖川熾仁(たるひと)に憲法意見書を提出した。この大隈の意見書は,すでに出されていた他の諸参議の官僚的漸進論に対立的な急進論で,基本的には欽定憲法を認めてはいたものの,イギリス流の政党内閣制を主張し,ただちに憲法を制定し,82年末から83年初めにかけて国会を開け,というものであった。執筆には福沢諭吉門下で大隈のもとにあった矢野竜渓(文雄)があたっていた。6月,太政大臣三条実美を通じてこの大隈意見書を借覧した伊藤は,君権の放棄だと大隈を非難し,右大臣岩倉具視と結んで,皇室の基礎を強固にし,天皇の大権を確立する国家組織の方針を固めた。そのためにも大隈とその背後にあるとみられた福沢一派の交詢社系をたたき,薩長藩閥体制の強化を図らなければならないと考えた。そこに開拓使官有物払下事件が起こったのである。開拓長官黒田清隆は,政府がそれまで10年間に約1400万円つぎこんできた開拓使の官有財産を無利息30ヵ年賦38万円という不当な安値で,薩派の政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げようとした。これは開拓使内部で黒田が,薩摩出身の開拓大書記官安田定則らに北海社という新会社の設立とそれへの払下げという形で検討させていたものであった。この払下げが民間にもれるや,藩閥政府攻撃の世論は高まり,民権運動は激しさを加えた。政府部内には大隈が反対していたから,矛先は大隈攻撃に向けられ,いわゆる大隈陰謀説が流された。大隈は薩長藩閥打倒のために河野敏鎌農商務卿らと謀り,輩下の官僚に働きかけて福沢ら三田派と通謀し,後藤象二郎,板垣退助ら土佐派の民権家と気脈を通じ,政商岩崎弥太郎(三菱)に資金を出させ,陰謀をはかっている,というのである。当時,すでに伊藤と大隈の対立は不可避になっていた。薩派(黒田・西郷従道ら)と大隈との間にも対抗関係があったから,開拓使官有物払下事件をきっかけに,それらが表面化したのである。大隈に対する薩長派の対立・緊張関係が,伊藤と黒田とを結びつけ,大隈追放劇としての明治14年の政変を進行させた。

 政府は開拓使官有物の払下げを中止するとともに,大隈の罷免,1890年を期しての国会開設を約束した詔書の発布という三つの措置に出た。それはおりから高まる自由民権運動を弾圧するためにも必要な政治的処断だった。1881年10月12日,大隈が参議を免じられ,一派と目されていた農商務卿河野敏鎌,駅逓総監前島密,判事北畠治房以下,矢野文雄(統計院幹事兼太政官大書記官),犬養毅(統計院権少書記官),尾崎行雄(同),中上川彦次郎(外務権大書記官),小野梓(一等検査官),島田三郎(文部権大書記官),中野武営(農商務権少書記官)らも相ついで罷免され,あるいは職を辞した。そして,10年後に国会開設を約束する詔書は,岩倉-伊藤ラインの懐刀として活躍した井上毅がいうように,それによって多数の人心と中立派を政府側にひきつけ,また,反対派には抵抗を呼び起こして敵と味方とを明確にせしめるという政治的意図が秘められているとともに,政府反対派へは,〈処スルニ国典ヲ以テスベシ〉と弾圧を明確に宣言していたのである。

 この明治14年の政変の意義としては,次の諸点が指摘できる。第1に,自由民権運動の展開が国会開設をもはや不可避の課題として政府を追いつめていたこと,そして,政府内の不統一や財政政策の破綻が暴露されて,政府は10年後の国会開設の明示を余儀なくせしめられ,政変は立憲制への画期となった。第2に,その反面,政府はこれを機に藩閥体制をいっそう強固にした。大隈の罷免後ただちに太政官制が改正され(10月21日),太政官と諸省の分離も中止され,再び参議は諸省の卿を兼任した。また,太政官中に強力な権限をもつ参事院が設置され,伊藤が参議兼参事院議長となって,薩長藩閥政府の陣容が整えられた。第3に,政変の背後には政商ブルジョアが存在し,それが一定の政治的影響力をもちはじめた。また,この政変を機に大隈財政は松方財政へと変わり,商人資本の産業資本への転化がなされはじめた。第4に,翌82年の朝鮮の壬午軍乱(壬午の変)以降の対外緊張と相まって,国家権力の専制的軍国主義的体制強化が急速に推進された。かくして,一方では立憲制への方向を打ち出しつつも,他方では専制的軍国主義的な体制の強化が促進され,明治14年の政変は近代天皇制国家確立への大きな画期となった。
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百科事典マイペディア 「明治十四年の政変」の意味・わかりやすい解説

明治14年の政変【めいじじゅうよねんのせいへん】

1881年(明治14年)参議大隈重信とその一派が政府から追放された事件。1880年民権派の国会開設請願運動は頂点に達し,政府は憲法制定と国会開設を決意したが,開設時期に関して大隈は即時開設,伊藤博文井上毅(こわし)は漸進的意見で対立した。1881年3月大隈は伊藤にはからず急進的な意見を左大臣有栖川(ありすがわ)宮を経て上奏。これを6月末伊藤が知り大隈との対立が激化した。このころ開拓使官有物払下事件が起こり,民権派の政府攻撃が高まった。反大隈派はこれを大隈が福沢諭吉らと結んで行った反政府陰謀であるとして,10月大隈とその一派を罷免した。同時に1890年を期して国会を開設し,その前に憲法制定を行うという詔書を公にして,プロイセン的な欽定憲法の制定にのりだすとともに,開拓使官有物払下を中止,伊藤・井上馨(かおる)を中心とする薩長藩閥政権を確立,明治国家体制形成のその後の方向を決定した。
→関連項目国会期成同盟島田三郎自由党(日本)自由民権福地桜痴松方正義矢野竜渓

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明治十四年の政変」の解説

明治14年の政変
めいじじゅうよねんのせいへん

国会開設問題などをめぐって1881年(明治14)に政府内部におこった政変。1879~80年自由民権派の国会開設運動が高まるなかで,政府は国会開設の構想づくりに着手し,諸参議がつぎつぎに意見書を提出した。81年3月,大隈重信が早期国会開設(83年)とイギリス流政党政治の実現を左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出すると,伊藤博文らは漸進論の立場から反対し,右大臣岩倉具視(ともみ)はプロイセン流君権主義的憲法の制定を説く井上毅(こわし)起草の意見書を提出した。また同年7~8月,開拓使官有物払下げをめぐり,これを進める黒田清隆と反対する大隈が対立した。さらに財政政策の対立も加わって,保守派の大隈排撃の動きも高まり,政府内部の軋轢(あつれき)が深まった。結局,同年10月,御前会議をへて払下げの中止,大隈の諭旨免官が決定し,明治23年に国会を開く旨の詔書がだされた。この政変を契機に政府の主導によるプロイセン流立憲政治実現の動きが進められた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明治十四年の政変」の解説

明治十四年の政変
めいじじゅうよねんのせいへん

1881(明治14)年10月,参議大隈重信らを追放した政変
国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが,その時期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨(長州藩出身)と即時国会開設論の大隈重信(肥前藩出身)が対立。このような中,開拓使官有物払下げ事件がおこると,民権派の背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとして,伊藤らは岩倉具視らと結び大隈らを罷免するとともに,払下げを中止し,国会開設の勅諭を出して民権派の反撃のほこ先をかわした。

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世界大百科事典(旧版)内の明治十四年の政変の言及

【大隈重信】より

…また,三菱汽船会社を助成し,三菱財閥との関係を深めた。しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,薩長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。…

【開拓使官有物払下事件】より

開拓使廃止の時期が迫った1881年に,開拓使の官営事業を官吏や政商に払い下げようとして世論のはげしい攻撃をうけ,払下げを中止した事件。藩閥政府攻撃が強まったため,明治14年の政変をひきおこした。開拓長官黒田清隆は,開拓使官吏の結成する北海社と,関西の政商で鹿児島出身の五代友厚らがつくった関西貿易商会とに開拓使官営諸事業を払い下げ,継承させようとし,8月1日政府は黒田の要求を認めた。…

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