1940年11月1日の勅令で制定された戦時常用衣服。日中戦争から太平洋戦争にかけて政府の提唱した〈国民精神総動員〉の衣料面における一環として,〈国民被服刷新委員会〉(1939)を中心に制定がすすめられた。軍服としても着られることや経済性などの諸条件を付して公募し,40年1月に発表,一般に普及し始めたところで法制化された。甲号と乙号があり,色は国防色(カーキ色),それぞれ上衣,中衣,袴(ズボン),外套,手套,帽子,靴から成る。双方に共通の特徴はネクタイ,ワイシャツ,チョッキを廃したことで,違いは襟の形や帯(ベルト),物入れ(ポケット)の有無などである。背広に代わる平常着として制定されたが,礼装にも用いられ,その際は第2ボタンから胸ポケットのボタンに古代紫色の〈国民服儀礼章〉をかけた。一方,女性に対しては〈婦人標準服研究会〉(1941)が推進役となり,国民服同様,活動に便利なこと,在来所持品の活用,仕立ての容易さなどを条件に公募し,42年2月19日,厚生省により婦人標準服が決定された。甲号(洋服型。上衣・下衣の二部式または一部式),乙号(和服型。筒袖上衣,筒型または巻きスカートふうの下衣,帯(幅17cm以内,長さ280cm程度)の二部式または一部式),活動衣(上衣,スラックス型またはもんぺの下衣)の3種類であった。いずれも正式な着装はあまりなされず,さらに衣料の供給難から42年に衣料切符制がとられたこともあって,全国民に広まるには至らなかった。
執筆者:池田 孝江
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日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装。国防色(カーキ色)の上衣と袴(こ)(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴からなり、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種があった。制定のねらいは、軍民被服の近接、被服資源の有効利用、和洋二重の衣生活合理化などで、東京日日、大阪毎日両紙と被服協会が前年11月に行った公募(応募282点)の入選作品をもとにデザインされた。古代紫色の組紐(くみひも)の儀礼章を胸につければ礼装になった。官吏や教員を手始めに一時は広く普及したが、敗戦後は着られなくなった。なお女性用には、42年(昭和17)2月厚生省が中心となり、648点の公募作品を参考に、スカート式の甲号、和服式の乙号、もんぺ(スラックス)式の活動衣の3種の婦人標準服が決定され、ことに活動衣は戦中・戦後のもんぺ、スラックス普及に道を開いた。
[森脇逸男]
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