藤原邦綱(読み)ふじわらのくにつな

改訂新版 世界大百科事典 「藤原邦綱」の意味・わかりやすい解説

藤原邦綱 (ふじわらのくにつな)
生没年:1122-81(保安3-養和1)

平安末期の公卿。父は北家庶流良門の末孫右馬権助盛国。蔵人所の雑色より身を起こし,中宮宮司となって関白藤原忠通の養女呈子に仕え,さらに忠通の家司となり,一時は第一の近臣とうたわれた。その間,壱岐,和泉,越後,伊予播磨の守を歴任して巨富を蓄え,1166年(仁安1)蔵人頭より参議に昇り,さらに累進して正二位権大納言に至った。一方,忠通の没後も引き続き摂政基実に仕えたが,とくにその室平盛子(清盛の女)の後見人となって清盛に親近し,また女の成子を六条天皇の,邦子を高倉天皇の,輔子を安徳天皇乳母とし,3天皇の養育に当たった。生来理財の才に長じ,〈大福長者〉とたたえられたが,心性広大で,諸人貴賤を論ぜず,その財力の援助をうけたという。しかし基実の没後,清盛に進言して摂関家領を盛子に伝領させたため,氏神の神罰にあたって没したのであろうと,九条兼実は評している。五条大納言,土御門大納言と称された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原邦綱」の意味・わかりやすい解説

藤原邦綱
ふじわらのくにつな
(1122―1181)

平安時代末期の貴族。父盛国は右馬権助(うまのごんのすけ)にとどまり、邦綱自身も1135年(保延1)の文章生(もんじょうしょう)が官歴の出発点である。貴族社会での家門には恵まれなかったが、諸国の国司や蔵人頭を歴任、1166年(仁安1)には参議となり公卿に列した。1177 年(治承1)に権大納言まで昇任している。摂関家の藤原忠通に家司(けいし)として重用されたが、平清盛とも関係は深く、1166年に忠通の長子であった基実が没した際、遺領未亡人で清盛の女である盛子が相続したのは、邦綱の進言による。摂関家の側からは非難を浴びたが、清盛の信任は篤く、以後の活動は親平家の公卿としてのものである。女が高倉天皇や安徳天皇の乳母をつとめ、当時の天皇家主流にも接近していた。とくに1180年(治承4)の福原から平安京への還都に際しては、高倉の側近として、渋る清盛の説得にもあたっている。官人として有能であり、またその富裕さで人々から一目置かれたという。

[松島周一]

『赤木志津子著「藤原邦綱考」(『摂関時代の諸相』所収・1988・近藤出版社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原邦綱」の解説

藤原邦綱 ふじわらの-くにつな

1122-1181 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
保安(ほうあん)3年生まれ。右馬権助(ごんのすけ)藤原盛国の子。摂関家の藤原忠通(ただみち)・基実(もとざね)父子の家司(けいし)。伊予(いよ),播磨(はりま)などの国守を歴任して富をたくわえる。のち平清盛とむすび,娘たちを六条・高倉・安徳天皇の乳母として権勢をふるった。福原遷都では新都造営役。権大納言,正二位にいたる。治承(じしょう)5年閏(うるう)2月23日死去。60歳。号は五条。

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