土村(読み)つちたるむら

日本歴史地名大系 「土村」の解説


つちたるむら

[現在地名]湯沢町土樽

魚野うおの川最上流にある。下流神立かんだつ村・湯沢村に続く。三国街道からも外れ、南方は西から平標たいらびよう山・せんくら山・万太郎まんたろう山・谷川たにがわ岳、東方は南から谷川岳・いちくら岳・茂倉しげくら岳・武能ぶのう岳・七ッ小屋ななつごや山など現群馬県境をなす山々に囲まれる。集落は南方の山々から発する沢水を集めた魚野川沿いに、上流から上土樽・下土樽・上松川かみまつかわ・下松川古野この中里なかさと萩原はぎつぱら中子なかご、魚野川支流の大源太おおげんた川沿いに、下流から添名そいなはら小坂こざか滝之又たきのまた下谷後しもやご・上谷後・旭原あさひばらがある。両川の谷間の集落からなるために両山谷りようやまたに呼称もある。

正保国絵図に高一一〇石余とみえる。天和三年郷帳では高二四八石一斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田一〇町四反余・畑五二町九反余。


土村
つちむら

[現在地名]福知山市字土・大池坂おおいけざか町・長山ながやま町・中坂なかさか町・北平野きたひらの町・西平野にしひらの

西流する由良川左岸に位置し、東は石原いさ村、北は由良川、南は長田野おさだの段丘の北縁部をもって長田村に境する。北部は自然堤防で主として桑園、中部一帯は水田であるが南部には上下二段の段丘がある。上段は標高約五〇メートル、下段はおよそ三〇メートルである。古くからの集落は下段の段丘の下に位置していた。

両段丘とも表面はいわゆる「くろぶく」と称する黒色土壌に覆われ、農耕には適さない。その下は砂礫が混じった粘土層である。長田野の下には幅約三〇メートル、長さ約一五〇メートルの池がある。その付近からは白い良質の陶土を産した。長田野の地層には同種の粘土が散在し、古代人が土器を作るに適したようである。古代土師はにし郷や当村の地名の起源にも関係があると推察される。

江戸時代に境界争いがあり、小字の論所ろんしよとよぶ地からは、線条文・凸帯文・櫛描文のある弥生中期の土器片が出土し、砥石・磨製石斧・軽石・小鉄塊・土錘や、煤煙付きの土器片、木炭も検出され、同時代の住居地に比定されている(論所遺跡)


土村
どむら

[現在地名]額田町鍛埜かじの

おと川沿いおよび南流する支流の保久ほつきゆう川左岸に集落が立地。天野氏家譜には「渡村」と記す。東は大林おおばやし村・大山おおやま村、西は鍛冶屋かじや村、南は法味ほうみ村、北は中保久なかほつきゆう村と各々山で接する。

中世、中山なかやま庄に属したという。天野氏家譜によると、天野長弘が文明元年(一四六九)に牛頭天王社を造立し、同四年に浄土宗鎮西派の東昌とうしよう寺を建立したとある。村内の須佐之男すさのお神社の棟札に「敬白奉造立大悲牛頭天王御宝殿一宇、檀那天野前左衛門尉長弘 法名性願 大工藤原太郎兵衛尉光重 応仁参年己丑二月廿九日 筆主阿弥陀寺快尊」とある。


土村
どむら

[現在地名]大沢野町土

神通川左岸中腹に位置し、西は根上ねのうえ村、東は下伏げぶせ村。古くこの地に田池たいけ村の大蛇退治のおり蛇の胴があったという伝説がある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の佐々成政の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に六七俵の所として「婦負郡堂村・寺井谷」とみえる。寺井谷てらいだには土村の出村で、東山頂にあった。婦負ねい郡に属し、加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。


土村
どむら

[現在地名]栗東町高野たかの

大橋おおはし村の北東、葉山はやま川と野洲やす川に挟まれた平地に立地。慶長八年(一六〇三)徳川家康は上野館林たてばやし(現群馬県館林市)榊原康政に「土村」七四三石余を含む五千石を在京賄料として与えた(「徳川家康朱印状」榊原文書)。同一〇年には上野国那波なは(現群馬県佐波郡)の酒井忠世(のち上野前橋藩主)領になった(姫路市立図書館所蔵文書)。慶長検地では高八三七石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では前橋藩領七四三石余・旗本朽木領九三石余。慶安高辻帳では前橋藩領田六九三石余・畑四九石余、朽木領田八五石余・畑三石余・永荒四石余。


土村
どむら

[現在地名]神岡町土

大多和おおだわ村山内から流出する跡津あとつ川の北岸、西は西漆山にしうるしやま村、南はまき村・笈破おいわれ村。越中東街道から分岐し、大多和峠を越すウレ山道の起点である。古くは村とも記した(瑞岸寺文書)茂住銀山もずみぎんざん町への道は難所が多く、ことに冬・春の往来は困難で、鹿間しかま村・笈破村・跡津川あとつがわ村を経由する回り道がある。慶長一〇年(一六〇五)・同一八年の飛騨国郷帳ではよしはら村と同じ。元禄検地反歩帳では高二石余、畑のみ一町一反余。「飛騨国中案内」では免二割七分五厘、家数四はみな百姓。



つちばみむら

[現在地名]砥用町土喰

南の津留つる川を境に越早津おつそうづ村・津留村、西は原町はらまち村、東は安懸やすかけ村、北は長野ながの村と接する。砥用郷の中心村落の一つで、近世は砥用手永会所の所在地、現在も砥用町役場がある。古町ふるまち遺跡から弥生中期の土器や古墳時代の石棺・横穴式石室などが発見された。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一二九石三斗余、うち田方七二石五斗余・畠方五六石七斗余。


土村
どむら

[現在地名]清水市土

東流する興津おきつ川を挟んで葛沢とずらさわ村の南に位置する。北流する布沢ぬのざわ川が当村を貫流して興津川に注いでいる。江戸時代の領主の変遷は小島おじま村に同じ。元禄郷帳では高一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の土村の言及

【小海[町]】より

…千曲川に平行してJR小海線,国道141号線が走り,千曲川沿いと山麓斜面を流れる中小河川沿いの標高800~1200m付近に集落が散在する。千曲川と相木川の合流点に位置する馬流(まながし)と土村(どむら)は古くから谷口集落として発展した。主産業は農業で,稲作のほか,高冷地に適したキャベツ,レタスなどの野菜類,花卉の栽培,畜産が行われる。…

※「土村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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