デジタル大辞泉
「坂本四方太」の意味・読み・例文・類語
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さかもと‐しほうだ【坂本四方太】
- 俳人。本名四方太(よもた)。鳥取県出身。東大国文科卒。正岡子規の指導をうけ、俳誌「ホトトギス」に俳句と共に多くの写生文を発表した。著に「夢の如し」など。明治六~大正六年(一八七三‐一九一七)
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坂本 四方太
サカモト シホウダ
明治・大正期の俳人,写生文作家
- 生年
- 明治6年2月4日(1873年)
- 没年
- 大正6(1917)年5月16日
- 出生地
- 鳥取県岩井郡大谷村
- 別名
- 別号=文泉子,角山人,虎穴生
- 学歴〔年〕
- 東京帝大文科大学国文科〔明治32年〕卒
- 経歴
- 高浜虚子、河東碧悟桐に俳句の手ほどきをうけ、正岡子規に認められる。明治31年「ホトトギス」第16号から選者。32年子規庵の写生文研究会に参加し、こののち句作よりも写生文に力を入れた。著書は写生文集「寒玉集」「夢の如し」のほか、子規、漱石ほかとの共著で「写生文集」など。東京帝大助手を経て、41年助教授兼司書官を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
坂本四方太
さかもとしほうだ
[生]1873.2.4. 鳥取,大谷
[没]1917.5.16. 東京
俳人。本名は「よもた」と読む。第二高等学校を経て,1899年東京大学国文学科卒業。母校の助教授兼司書官をつとめた。高浜虚子に師事し,『ホトトギス』派の俳人として認められた。また,正岡子規の提唱した写生文の実践を推進し,代表作の半自伝的な『夢の如し』 (1907,09) などを書いた。ほかに写生文集『寒玉集』 (01) ,『帆立貝』 (06,虚子と共著) など。
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坂本四方太【さかもとしほうだ】
俳人,写生文作家。本名四方太(よもた)。別号,文泉子。鳥取県生れ。東大国文科卒。仙台の二高在学中は高浜虚子に俳句の手ほどきを受け,上京後は正岡子規に師事した。子規の影響下に多くの写生文を残した。代表作は,子規との共著《写生文集 帆立て貝》,自伝《夢のごとし》など。
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坂本四方太 さかもと-しほうだ
1873-1917 明治-大正時代の俳人。
明治6年2月4日生まれ。母校東京帝大の助教授兼付属図書館司書。二高時代の友人高浜虚子(きょし)の影響をうけ,正岡子規(しき)にまなぶ。子規の提唱する写生文の創作と発展につとめた。作品に自伝的長編「夢の如し」。大正6年5月16日死去。45歳。鳥取県出身。本名は四方太(よもた)。別号に文泉子,角山人,虎穴生。
【格言など】起きいでゝ宵の鮓(すし)くふ男かな(「新俳句」)
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世界大百科事典(旧版)内の坂本四方太の言及
【写生文】より
…表現にははじめ文語が用いられたが,しだいに口語体となり,時間的な流れを寸断した一つの場面を客観的に写生し,それをつづり合わせるという手法で時間の再現を試みた。子規没後,虚子,寒川鼠骨(さむかわそこつ)(1875‐1954),坂本四方太(しほうだ)(1873‐1917)らが力を注ぎ,写生文の名称も一般化した。小説での応用は,夏目漱石の《吾輩は猫である》(1905),《草枕》(1906),虚子の《風流懺法》(1907),伊藤左千夫の《野菊の墓》(1906),長塚節の《土》(1910)などにも見られる。…
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