伊藤仁斎(じんさい)が1662年(寛文2)京都堀川通丸太(まるた)町南の自宅に塾(古義堂(こぎどう))を開いて古義学を唱導したので、仁斎の学統を堀川学派または古義学派という。堀川を隔てた山崎闇斎(あんさい)塾の厳しい学風に対し、友人が親しみ合う穏和な雰囲気のなかで研究会や、論孟(もう)中庸を中心とする仁斎の講義が40年にわたって行われた。闇斎塾の出版物の朱色の表紙に対し仁斎塾は藍(あい)色の表紙を用いて学派意識を表した。この門からは並河天民(なみかわてんみん)、小川立所(りっしょ)・弘斎(こうさい)兄弟らが出たが、学・塾は仁斎の長子東涯(とうがい)によって紹述、継承された。那波魯堂(なわろどう)の『学問源流』は「元禄(げんろく)の中比(なかごろ)より宝永(ほうえい)を経て正徳(しょうとく)の末に至るまで其(そ)の学盛(さかん)に行はれ、世界を以(もっ)て是(これ)を計(はか)らば十分の七と云(い)ふ程に行はる」という。その後、堀川塾はさびれながらも京都市民の儒学塾として子孫相承して明治の末年まで講義を行い、歴代の稿本類を所蔵してきたが、現在、稿本類は天理大学附属図書館古義堂文庫に移され、塾の遺構は国指定の史跡として保存されている。
[石田一良]
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伊藤仁斎が創始し,子の東涯(とうがい)・梅宇(ばいう)・蘭嵎(らんぐう)ら兄弟により家学として継承された儒学派。名称は私塾古義堂のあった京都の地名による。17~18世紀に最盛期を迎えた。一門に並河天民・北村可昌・穂積以貫らがいる。程朱学を批判して大きな反響をよび,門人は全国各地から集まった。常陸国水戸藩の「大日本史」編纂関係者も多い。史料批判や礼楽(れいがく)制度の歴史的研究は,後世に大きな影響を与えた。京都上層町人や公家との関係が深い。
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