日本歴史地名大系 「外海浦」の解説
外海浦
そとうみうら
船越半島の南部と
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「外海浦 茅山有、柴山有、沖島此内也」とみえ、石高も
太閤検地の石高は一五四石一斗二升八合で、耕地面積の比率は田八二パーセント、畑一八パーセントであったが、寛文検地では石高が二一パーセント増加し、田五四パーセント、畑四六パーセントと畑の開発が著しい。当浦を構成する各枝浦の規模を、元禄一三年(一七〇〇)の定免制施行時の年貢高で比較すると、深浦四三パーセント、垣内浦二パーセント、脇本浦一二パーセント、大浜新田一パーセント、岩水浦八パーセント、福浦一六パーセント、内泊浦二パーセント、久浪浦六パーセント、船越浦六パーセント、提浦四パーセントである。
「大成郡録」によると宝永三年(一七〇六)の戸数一八七、人口一千六一、宝暦七年(一七五七)の戸数一九七、人口一千一五〇とある。「墅截」によると、当浦の百姓数は一三二人で、うち本百姓一一七人、半百姓一四人、庄屋一人である。しかし本百姓のうち二一人、半百姓のうち八人は「畑斗作ル」と注記され、各枝浦の本百姓一人前の耕地高と合わせ考えると、漁村としての性格が強かったことがうかがえる。貞享元年(一六八四)の役水主は九〇人であった。漁村としての発展は目覚ましく、「大成郡録」によると宝永三年に網船六艘、鰹釣船三艘であったものが、宝暦七年には網船一二艘、鰹釣船一一艘と急増している。しかし土佐分宿毛湾に面していたこともあって、漁業権の問題が絶えなかった。安政四年(一八五七)の願書に「外海浦の義は兼て御承知被成下候通、一方は土州分にて釣漁の外は決て入相差支」とあり、この間の事情を推測できる。
外海浦
そとうみうら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報