大塚山古墳群(読み)おおつかやまこふんぐん

日本歴史地名大系 「大塚山古墳群」の解説

大塚山古墳群
おおつかやまこふんぐん

[現在地名]河合町大字川合・穴闇

馬見うまみ丘陵東北、標高四〇メートル前後と奈良盆地でも最低位の平坦地に位置する古墳群で、馬見古墳群の北端グループとも、その中心をなす古墳の名をとって大塚山古墳群ともよばれている。

西城垣内にしんじよがいと集落のすぐ北にある大塚山古墳は、ほぼ南に前方部を向ける前方後円墳で、全長二一五メートル、後円部径一〇八メートル、高さ一五・八メートル、前方部幅一二三メートル、高さ一六・九メートルと、群中では最大の規模である。墳丘の周囲に巡らされた堀のあとは、いまは水田となっているが明瞭に遺存している。馬蹄形の周濠は形に特色があり、後円部付近の外堤線が直線に近いカーブをなしている。三段に築成された墳丘にも違いがみられ、一段目は割合に低く急傾斜でやや角ばった感があり、上の段は高く傾斜も緩やかでゆったりとし、造出しもみられない。

大塚山古墳群
おおつかやまこふんぐん

[現在地名]会津若松市一箕町八幡 大塚

会津盆地東縁山地の西側に存在する標高約二七〇メートルの独立丘陵上に立地する。山頂の前方後円墳を主墳に円墳九基と丘陵南側の横穴墓一四基からなる。「新編会津風土記」には「昔南の中腹に蝦夷穴とて九尺四方計の洞一つ、小き洞五つありし」と記される。頂上の古墳は昭和三九年(一九六四)発掘調査が行われ、同六三年再度測量調査が実施された。これらの結果、この古墳は全長一一四メートル、後円部直径約七〇メートル、前方部端幅五四メートルを測る前方後円墳で、後円部はやや西側にふくらみ、くびれ部東側に張出し部が存在する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大塚山古墳群」の解説

おおつかやまこふんぐん【大塚山古墳群】


奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡河合町川合・穴闇にある古墳群。指定名称は「大塚山古墳群 大塚山古墳(おおつかやまこふん) 城山古墳(しろやまこふん) 高山塚一号古墳(たかやまづかいちごうこふん) 高山塚二号古墳(たかやまづかにごうこふん) 高山塚三号古墳(たかやまづかさんごうこふん) 高山塚四号古墳(たかやまづかよんごうこふん) 九僧塚古墳(くそうづかこふん) 丸山古墳(まるやまこふん)」。馬見丘陵の北東に続く低丘陵地帯の端に位置し、大塚山古墳がその中心をなしている。1956年(昭和31)に国の史跡に指定された。大塚山古墳はほぼ南面する前方後円墳で、主軸の長さ約190mを有する壮大な墳丘をなし、3段築成で濠の跡をとどめ、5世紀中ごろから後半に築造されたと考えられる。付近には九僧塚古墳、城山古墳、丸山古墳、高山塚一号古墳などがある。九僧塚古墳は大塚山古墳の西方に接しており、1辺の長さ約35mの2段築成の方形墳。城山古墳は大塚山古墳の北東約300mの地にあり、南面する前方後円墳で主軸の長さ約90mで、墳丘は2段に築成され、濠の跡をとどめている。その西方約150mの地には丸山古墳と称せられる円墳がある。高山塚一号墳も大塚山古墳の北西方約160mのところにあり、東北に面する前方後円墳で主軸の長さ約88m、2段築成で、濠の跡を残しており、付近に二号~四号古墳の3基の小円墳がある。これら8基の古墳群は、宏壮な大塚山古墳を中心として分布しており、前方後円墳、方墳、円墳からなり、大和地方における古墳群の一例として学術上重要な存在となっている。大塚山古墳へは、近畿日本鉄道田原本線池部駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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