大島亮吉(読み)オオシマリョウキチ

デジタル大辞泉 「大島亮吉」の意味・読み・例文・類語

おおしま‐りょうきち〔おほしまリヤウキチ〕【大島亮吉】

[1899~1928]登山家。東京の生まれ。大正11年(1922)北アルプス槍ヶ岳の冬期初登頂に成功。登山思想確立に努めたが、昭和3年(1928)3月、前穂高岳北尾根で墜落死。著「山」「先蹤者」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「大島亮吉」の意味・わかりやすい解説

大島亮吉 (おおしまりょうきち)
生没年:1899-1928(明治32-昭和3)

日本の近代登山の先駆者の一人。東京都出身。慶応義塾大学経済学部在学中に槙有恒,三田幸夫らとともに慶大山岳部の中心として活躍。1922年には槙らと槍ヶ岳冬季初登,24年奥穂高岳,北穂高岳冬季初登などの記録を残した。また諸外国の登山関係文献を研究紹介し,慶大山岳部部報《登高行》などに多くの論文を発表。他方〈荒船と神津牧場付近〉など文学的な文章も書き,広い視野をもった登山家として多大な影響を登山界に与えた。28年3月前穂高岳北尾根で墜落死。遺稿は《山》(1930),《先蹤者》(1935)としてまとめられ,日本登山界の名著として知られる。《大島亮吉全集》全5巻(1969-70)がある。
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20世紀日本人名事典 「大島亮吉」の解説

大島 亮吉
オオシマ リョウキチ

大正・昭和期の登山家



生年
明治32(1899)年9月4日

没年
昭和3(1928)年3月25日

出生地
東京

学歴〔年〕
慶応義塾商工学校卒

経歴
大正4年鹿子木員信、槇有恒らがつくった慶大山岳会に入会。11年槇をリーダーとする槍ケ岳の積雪登頂に参加。以後立山、穂高、未開の北海道山谷など、岩登り、スキー登山に足跡を残した。この間、部誌「登高行」、雑誌「山とスキー」などに「涸沢の岩小屋のある夜のこと」「山への想片」「石狩岳より石狩川に沿うて」など多くの紀行随想を発表。他に「山―研究と随想」「先蹤者」「大島亮吉全集」(全5巻)などの著書がある。昭和3年3月前穂高北尾根で転落死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大島亮吉」の意味・わかりやすい解説

大島亮吉
おおしまりょうきち
(1899―1928)

登山家。東京出身。1919年(大正8)慶応義塾大学経済予科に進学。21年槇有恒(まきありつね)の帰国で近代登山技術が伝えられ、槇らとともに穂高岳を中心として登攀(とうはん)を行うとともに、諸外国の登山文献の紹介と登山思想の確立に努め、登山界に多くの影響を与えた。昭和3年3月前穂高北尾根で墜落死。『山』『先蹤者(せんしょうしゃ)』などの遺著や『大島亮吉全集』などにその優れた思想をうかがうことができる。

[徳久球雄]

『本郷常幸他編『大島亮吉全集』全5巻(1970・あかね書房)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大島亮吉」の解説

大島亮吉 おおしま-りょうきち

1899-1928 大正-昭和時代前期の登山家。
明治32年9月4日生まれ。大正4年槙有恒(まき-ありつね)らが設立した慶大山岳会にはいる。奥穂高,前穂高の積雪期初登頂,谷川岳岩場の開拓など,パイオニアとしての足跡をのこす。また西欧の登山思想・技術を紹介した。昭和3年3月25日前穂高岳北尾根で墜死。30歳。東京出身。慶大卒。遺著に「山」「先蹤(せんしょう)者」。

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367日誕生日大事典 「大島亮吉」の解説

大島 亮吉 (おおしま りょうきち)

生年月日:1899年9月4日
大正時代;昭和時代の登山家
1928年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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