正保年間(一六四四―四八)に作成された国絵図では、保高岳とされている。享保九年(一七二四)の「信府統記」によれば、「此岳ハ往古ヨリ穂高大明神ノ山ト云伝ヘテ此名アリ、嶮山ニシテ登ルコト能ハズ、麓ニ大明神ノ
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長野・岐阜県境にあり,飛驒山脈の主峰をなす山。H字形の平面形をもつ連峰群で,西側の南北方向に伸びる尾根が主脈であり,最高峰の奥穂高岳(3190m)はこの主脈から東へ尾根が分岐する地点にある。奥穂高岳から北へは,穂高岳山荘のある白出(しらだし)の鞍部を経て涸沢(からさわ)岳(唐沢岳。3110m),北穂高岳(3106m)と続き,大キレットの鞍部を隔てて槍ヶ岳連峰の南岳に至る。また南へは,ジャンダルム,ロバの耳などの岩峰が続き,高度を減じながら西穂高岳(2909m),西穂山荘を経て焼岳に達する。奥穂高岳から東へ伸びる尾根は,緩やかなたるみを見せる吊尾根と呼ばれるもので,東側の南北方向の尾根との交点に前穂高岳(3090m)がそびえている。前穂高岳の南には明神岳(2931m)がある。
山体はおもにヒン岩と呼ばれる硬い岩石で構成され,断層によって西側の蒲田(がまだ)川,東側の梓川に激しく落ち込む急斜面ができ,それを氷河が浸食して緩く広いU字谷やカールが形成された。とくに東側斜面の涸沢カールは日本最大のスケールをもつ。
氷食谷には,イタドリやコバイケイソウなどの植生や,ベニヒカゲなどの高山チョウが見られ,谷奥に広がるカール底には,湿性のチングルマやハクサンコザクラ,中性のクロユリやクルマユリ,ヨツバシオガマ,ミヤマキンポウゲなどの高山植物が咲き乱れ,ライチョウも生息する。その上に鋭くそびえ立つ岩壁には,登山者たちが多くのルートを開いた。山頂に至る一般的なルートとしては,上高地から横尾,涸沢経由で奥穂高に達するもの,河童(かつぱ)橋から岳(だけ)沢経由で前穂高岳近くの吊尾根に至るもの,岐阜県側の新穂高温泉から白出沢経由で穂高岳山荘に達するもの,同じく新穂高温泉からロープウェー(1970完成)で西穂高口に至り,そこから西穂山荘に登るものなどがある。
執筆者:五百沢 智也
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長野・岐阜県境にあり、北アルプス南部の中心をなす山。穂高連峰ともいう。北アルプス最高峰の奥穂高岳(3190メートル)を中心に南北に連なる北穂高岳(3106メートル)、涸沢(からさわ)岳(3110メートル)、奥穂高岳、前穂高岳(3090メートル)、西穂高岳(2909メートル)の総称。『延喜式(えんぎしき)』(927成立)に記載の穂高神社は松本盆地の安曇野(あづみの)市にあるが、西方に北アルプスの山々を望む位置にあり、おそらく古代は北アルプス全体を穂高とよんだものと考えられる。奥穂高岳の東側には、北穂高、前穂高に囲まれた氷食地形の涸沢カールがあり、穂高岳登山の基地として夏はカラフルなテント村が現出する。涸沢から奥穂高、北穂高を経て北方の槍ヶ岳(やりがたけ)(3180メートル)への縦走路は北アルプスの代表的なコースで、途中に大キレットの難所がある。また、北穂高岳の西側の滝谷(たきたに)は垂直に近い岩壁をなし、ロッククライミングで知られる。井上靖(やすし)の小説『氷壁』は、実際に前穂高岳で起きた遭難事故から着想を得て書かれた。穂高岳への初登山は1880年(明治13)にイギリス人の技師ガウランドWilliam Gouland(1842―1922)によるもので、日本人としては1905年(明治38)に鵜殿正雄(うどのまさお)が前穂高の登頂に成功。その後1970年代後半までには、より困難なルートすら冬期登攀がほとんど完了し、人気の高い山域であったことが分かる。岐阜県側の新穂高温泉から西穂高岳中腹の千石平(せんごくだいら)(2156メートル)へはロープウェーが通じ、ここから西穂山頂へは約4時間で達することができる。
[小林寛義]
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