大巻村(読み)おおまきむら

日本歴史地名大系 「大巻村」の解説

大巻村
おおまきむら

[現在地名]紫波町大巻

北上川左岸に広がる平坦地と、東方へ連なる山間丘陵地を占める。南は彦部ひこべ村、東は赤沢あかざわ村、西は北上川を隔て桜町さくらまち村・北日詰きたひづめ村・南日詰村、北は星山ほしやま村。寛永一八年(一六四一)の高六六〇石余、中野吉兵衛・遠山助四郎・小軽米彦四郎・田中久太夫・鳥島弥三郎・宮長三右衛門・北左衛門佐らの知行地となっている(「検地高目録写」県立図書館蔵)正保国絵図に村名がみえ、高二六五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高六六四石余、七ヵ年平均の免三ツ九分八厘五毛。


大巻村
おおまきむら

[現在地名]鶴田町大巻

西から北へ岩木川が蛇行する右岸に位置し、東は亀田かめだ村、南は強巻こわまき村に接する。

貞享元年(一六八四)郷村帳に一〇五・二石とあり、寛文四年(一六六四)以後新田とされる。貞享四年の検地帳に田方三五町二反八畝七歩、畑方一八町七反一五歩、田畑屋敷合せて五三町九反八畝二二歩、村高三三三・三八三石、百姓四三人と記す。


大巻村
おおまきむら

[現在地名]比内町大巻

大館盆地南端部、北流する引欠ひかけ川上流左岸の糸柄おがら沢入口付近に位置する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田、九一石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」では谷地中やちなか村の枝郷で大蒔村、戸数一六軒とある。寛政六年(一七九四)の当高は一二五・九石余で、すべて給分と記載される(六郡惣高村附帳)。同年の枝郷は弥助やすけ村一ヵ村。また「秋田風土記」には、高一二八石五斗、家居三〇戸、人二一一とある。


大巻村
おおまきむら

[現在地名]朝日町和合わごう 大隅おおすみ

蛇行する最上川右岸にあり、南は和合村。北対岸の栗木沢くりきさわ村との間に渡船があった。正保郷帳では田方七四石余・畑方二五石余。慶安二年(一六四九)より松山藩領。元禄六年(一六九三)の検地帳(菅井文書)では高九九石余、家数一二。宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)では東五百川ひがしいもがわ郷和合組に属し、高一一九石余、家数一四・人数八四、一四軒のうち二軒は最上川の渡守であった。元禄元年完成した和合堰によって村の開発が進んだ。また和合村との共同による釜山かまやま開発は明治中期に及び、一〇〇町歩にも達する。


大巻村
おおまきむら

[現在地名]西仙北町大巻

仙北平野の北部寺館尻引てらだてしりひき村と強首こわくび村のほぼ中間、西流する雄物川の南に位置する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では六二石。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)では、高六四石余(当高三二石余)はすべて新田。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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