和合村(読み)わごうむら

日本歴史地名大系 「和合村」の解説

和合村
わごうむら

[現在地名]阿南町和合

和合川に沿った谷間にあり、遠州往還と三州(伊那)往還の中間の山地に位置。北は入野いりの村・新井あらい村、東は門原もんばら村・田上吉田たがみよしだ村・帯川おびかわ村、南は日吉ひよし村、西は浪合なみあい村・平谷ひらや村に接する。

村高は、正保四年(一六四七)に五五石余(信濃国絵図高辻)

集落は和合川の台地の上段山裾の狭小な平地にあり、近世は焼畑作が主であり、麦・大豆・粟・稗・蕎麦などを生産した(南伊那農村誌)。文政五年(一八二二)の宗門人別帳によると、戸数は五四戸、男一八七人、女一五八人、計三四五人であった。

村の西北、丸山の麓には、遠州往還と三州(伊那)往還を結ぶ押えの関所であった心川関こころがわのせきがあったが、現在は石垣を残すのみである。

和合村
わごうむら

[現在地名]下山村和合

ともえ川の支流大桑おおくわ川に沿い、東は羽布はぶ村、南から西にかけて黒坂くろさか村・小松野こまつの村、北は芦原子ああらご村・神殿かんどの村・荻島おぎしま村・大桑おおくわ村に接する。集落は小起伏面上に点在。現主要地方道阿蔵―本宿線が通る。縄文時代の遺跡が多く、時期不詳のいしとうくり番丈木ばんじようぎ日向ひよもの四遺跡がある。

寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。慶安四年(一六五一)保久ほつきゆう(現額田郡額田町)に陣屋を置く旗本石川総氏の知行地となり明治に至る。

和合村
わごうむら

[現在地名]朝日町和合

最上川と送橋おくりはし川の合流点北側の段丘上にあり、南は四野沢しのさわ村、北は大巻おおまき村。正保郷帳に和郷村とあり、田方二四七石余・畑方七八石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。元禄元年(一六八八)和合堰が開削され、和合原を開墾したことから発展した。天保八年(一八三七)には堰路を拡充整備し、当村ならびに大巻村のほとんどの水田を灌漑するに至った。小原おばら水上みずかみ神社は元禄一〇年堰の鎮護神として勧請された。

和合村
わごうむら

[現在地名]東郷町和合・和合わごうおか春木はるき

南は傍示本ほうじもと村に隣接する。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「弐貫五百五十八文(中略)尾張国竹鼻和郷并小熊保段銭」とある。天正一二年(一五八四)小牧長久手の戦で全村焼失したと伝えられる。東西二三町・南北九町。「寛文覚書」や「徇行記」には鳴海なるみ庄とあるが、古くは山田やまだ庄に属したと考えられている(東郷村誌)。村内を駿河街道が東西に走り、東南部で諸輪もろわ道と傍示本道に分れ、さらに北からは折戸道も合流して交通上の要地をなし、集落もこの付近に形成された(天保村絵図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和合村の言及

【阿南[町]】より

…長野県南部,下伊那郡の町。1957年大下条,和合,旦開(あさげ)の3村が合体,町制。59年富草村を合体。人口6565(1995)。天竜川中流西岸,木曾山脈南東端に位置し,南端は愛知県に接する。町域の大部分が山林・原野で占められ,耕地は天竜川支流の和合川沿いにわずかに散在する。農林業を主体に営まれているが,農業人口の減少や兼業化が進むなかで,近年工業の導入が図られている。民俗芸能の宝庫で新野の雪祭(重要無形民俗文化財),盆踊をはじめとして,和合の念仏踊,早稲田人形などが伝わる。…

※「和合村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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