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大慧宗杲 だいえそうごうDa-hui Zong-gao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大慧宗杲
だいえそうごう
Da-hui Zong-gao

[生]元祐4(1089).寧国
[没]隆興1(1163).8.10.
中国,宋の楊岐派の禅僧。姓は奚。字は大慧。号は妙喜。 12歳で出家。慧斉,紹てい,文準らに参禅して修行し,圜悟克勤 (えんごこくごん) に印可を受けた。径山阿育王山などの名寺を歴住し,弟子の養成にあたった。門弟 2000をこえたという。その禅風は看話 (かんな) 禅と呼ばれる。書は雄渾な気迫が横溢したもので,生前から著名であった。遺品としては『尺牘 (せきとく) 与無相居士』 (東京国立博物館) がある。著書に『大慧武庫』『大慧語録』『正法眼蔵』などがある。

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世界大百科事典 第2版の解説

だいえそうこう【大慧宗杲 Dà huì Zōng gǎo】

1089‐1163
中国,宋代中期の禅僧臨済宗楊岐派,第5代。妙喜,仏日,普覚禅師ともいう。安徽省宣州の人,姓は奚。はじめ東京天寧寺で黄竜の兜率(とそつ)に学び,次いで圜悟克勤(こくごん)に参じて,その法をつぐ。杭浙の名山に歴住し,趙州無字による公案参究を主張して,曹洞宗の真歇清了を黙照の邪禅として攻撃,多数の士大夫の参禅をかちとる。師の圜悟が編する《碧巌録》を焼いたというのは,禅が文字に流れるのを戒める意を含む。張九成の帰依を得たことから,一時はその政争に連座して,衡州と梅州に追放されるが,再び育王山や径山に住して,天子や士大夫のうちに絶大の支持を得,弟子の活動もまためざましく,相次いで入内,説法するものがあり,さらにその弟子たちによって,五山十刹制度がつくられる遠因をなした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大慧宗杲
だいえそうこう
(1089―1163)

中国、宋(そう)代の臨済(りんざい)宗の禅僧。看話禅(かんなぜん)の大成者。賜号は仏日大師、大慧禅師、諡号(しごう)は普覚(ふかく)禅師。妙喜(みょうき)と号する。俗姓は奚(けい)氏。宣州(安徽(あんき)省)の人。16歳で出家し、洞山道微(どうび)潭文準(ろくたんぶんじゅん)(1061―1115)に参じ、東京(トンキン)の天寧寺の圜悟克勤(えんごこくごん)の下で悟りを開き嗣法(しほう)した。49歳で径山(きんざん)に住し、のち政争に巻き込まれて、衡陽(湖南省)、ついで梅州(広東(カントン)省)に流罪となる。69歳で復僧し、阿育王山に住したのち、径山に再住した。公案による悟(ご)を強調し、禅思想に期を画した。隆興元年8月10日示寂。『語録』30巻は大蔵経に編入される。[石井修道]

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世界大百科事典内の大慧宗杲の言及

【臨済宗】より

…臨済宗は宋代の士大夫(したいふ)階層の支持を得てしだいに隆盛におもむき,初め黄竜派が発展したが,のち楊岐派がこれに代わった。特に大慧宗杲(だいえそうこう)は公案による参禅工夫の禅風を完成し,虎丘紹隆(くきゆうじようりゆう)の門流密庵咸傑(みつたんかんけつ)は,松源崇岳(しようげんすうがく),破庵祖先(ほあんそせん)など多数の逸材を養成し,松源派,破庵派などの大門派を形成し,楊岐派の基礎を固めた。 日本に初めて本格的な臨済禅をもたらした栄西は,虚庵懐敞(こあんえじよう)に嗣法して黄竜派の臨済禅をもち帰った。…

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