大日本製糖(読み)だいにほんせいとう

改訂新版 世界大百科事典 「大日本製糖」の意味・わかりやすい解説

大日本製糖[株] (だいにほんせいとう)

第2次大戦前,台湾,朝鮮などで広く事業を行い,一時東洋一の規模を有した製糖メーカー。1896年,鈴木製糖所(鈴木藤三郎が1883年に創業,91年精製糖の生産に成功)の事業を継承して,日本精製糖(株)として設立された。1906年,日本精糖(1898設立)を吸収合併し,社名を大日本製糖(株)と改称(日糖と略称)。07年台湾での原料糖事業を開始する。その後一時疑獄事件(日糖疑獄)のため社内が混乱したが,09年三井財閥の藤山雷太(1863-1938)が社長に就任し事態を収拾した。19年朝鮮製糖(1917設立)を,23年内外製糖(1920設立)を合併して,朝鮮およびインドネシア進出し事業の拡大を図った。台湾においても他社の買収を進めるとともに,酵母,アルコール,ブタノール酪農などの事業にも進出した。41年,内地製糖業が戦時下で壊滅しつつあったため本社を台北に移し,43年には社名を日糖興業(株)と改称した。

 敗戦により海外資産を失い,戦禍をまぬかれた門司工場占領軍の管理下におかれたが,46年には門司工場でイーストの生産を始め,49年には製糖事業を再開した。翌50年には日糖興業の国内資産を継承する形で,旧社名の大日本製糖(株)の名称を用いて再び設立された。51年横浜に,53年堺に工場を建設し,61年には北海道でテンサイ糖事業を開始した。しかし63年からの原糖の輸入自由化後,事業は苦境に陥り,64年に三菱商事と契約し販売の強化を図り,71年には明治製糖と提携して東日本製糖を設立するなど合理化に努めた。しかし,79年上場廃止,84年3月に解散し,事業を新会社(当初ニットー(株)であったが,愛着のある社名ということで大日本製糖(株)という名前が再びつけられた)に移行した。なお96年大日本製糖(株)と明治製糖(株)が合併して大日本明治製糖(株)となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大日本製糖」の意味・わかりやすい解説

大日本製糖
だいにっぽんせいとう

近代的製糖業の先駆。1883年(明治16)鈴木藤三郎(とうさぶろう)(1855―1912)の創業した鈴木製糖所を引き継いで1895年日本精製糖が設立された。1906年(明治39)日本精糖を合併して大日本製糖と改称、台湾に進出する。翌1907年大里製糖所を吸収、独占体制を築くが、内紛に加え1909年の日糖疑獄事件で破綻(はたん)の危機に瀕(ひん)し、三井の藤山雷太(らいた)が立て直す。1914年(大正3)名古屋精糖、1919年朝鮮精糖、1923年内外精糖を合併してジャワ(現インドネシア)糖業に進出、さらに金融恐慌後、東洋精糖、新高(にいたか)製糖などを吸収して内地精糖中心から台湾粗糖業へ移行、戦時統制が強化されると、1941年(昭和16)台湾に本社を移転、1943年日糖興業と改称する。

 第二次世界大戦後、外地会社として連合国管理下に入るが、1949年(昭和24)大日本製糖として再発足、門司(もじ)工場に加えて横浜、堺(さかい)に工場を建設する。1964年、三菱(みつびし)商事と契約して国内販売体制強化を図るが、他部門への進出が遅れて1971年ころから経営が悪化し、1970年代後半から再建に入ったが、1984年初め大日本製糖は解散し、社名、営業権を譲り受けた新しい大日本製糖が設立された。1996年(平成8)7月には明治製糖と合併、大日本明治製糖となった。

[田付茉莉子]


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世界大百科事典(旧版)内の大日本製糖の言及

【砂糖】より

…98年には渋沢栄一により日本精糖が大阪に設立されている。その後1906年には,日本精製糖が日本精糖を吸収合併する形で大日本製糖が誕生した。しかし日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。…

※「大日本製糖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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