大正・昭和期の経済学者,評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
労農派の理論的指導者。横浜市に生まれる。東大経済学部卒業後,助手を経て同学部助教授となった。その間,E.レーデラーの薫陶を受ける。1925年山田盛太郎,有沢広巳らと政治研究会に加入。翌年雑誌《大衆》編集同人。27年鈴木茂三郎らと〈大衆〉グループを率いて労農派結成に参加した。翌年三・一五事件の影響で東大を退職。以後労農派の理論家として活動し,とりわけ30年以降同派の指導的地位にあった。山川均の共同戦線党論の擁護につとめ,35年以降は反ファッショ統一戦線運動を提唱した。37年人民戦線事件で検挙。39年重病となり保釈後病死。マルクス主義擁護のために論陣を張り,《史的唯物論》《唯物弁証法読本》などを著した。平野義太郎,山田盛太郎とともに〈三太郎〉の一人として,またその軽妙,辛辣な筆致で青年インテリ層を引き付けた。
執筆者:吉見 義明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
マルクス主義者、評論家。明治31年9月26日横浜市に生まれる。東京帝国大学経済学部を卒業、同学部助手を経て助教授。才気あふれる文章でマルクス主義を論じ、若くして論壇の花形となった。1926年(大正15)極左派批判の立場から鈴木茂三郎(もさぶろう)などと雑誌『大衆』を創刊、27年(昭和2)創刊の雑誌『労農』にも同人として参加した。その華やかな左翼的言動のため、28年の三・一五事件の直後に東大を辞職させられた。その後も労農派の一員として、政治、経済から思想、文学、映画批評にもわたる多彩な評論活動を続けたが、37年に人民戦線事件で検挙され、38年病気のため保釈となったが、病いえず40年(昭和15)7月28日に没した。著書に『史的唯物論』(1932)、『まてりありすむす・みりたんす』(1934)などがある。
[山崎春成]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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