向坂逸郎(読み)サキサカイツロウ

デジタル大辞泉 「向坂逸郎」の意味・読み・例文・類語

さきさか‐いつろう〔‐イツラウ〕【向坂逸郎】

[1897~1985]経済学者。福岡の生まれ。九大教授。労農派に属し、日本資本主義論争参加。第二次大戦後、社会主義協会主宰労働運動日本社会党左派の理論的指導者として活躍翻訳資本論」、著「地代論研究」など。

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精選版 日本国語大辞典 「向坂逸郎」の意味・読み・例文・類語

さきさか‐いつろう【向坂逸郎】

  1. 経済学者。福岡県生まれ。九州大学教授。日本マルクス主義研究の基礎を築いた。第二次大戦後は社会主義協会を率い、社会党左派の理論的指導者として活躍した。著書に「地代論の研究」「マルクス経済学方法」、翻訳に「資本論」など。明治三〇~昭和六〇年(一八九七‐一九八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「向坂逸郎」の意味・わかりやすい解説

向坂逸郎
さきさかいつろう
(1897―1985)

マルクス経済学者。福岡県大牟田(おおむた)市に生まれる。1921年(大正10)東京帝国大学経済学部卒業。22年より2年半にわたってベルリン留学。この間マルクス、エンゲルスをはじめカウツキー、ベーベル、ヒルファーディングらのマルクス主義理論家の著作を研究すると同時に、マルクス主義文献の収集に努めて、日本におけるマルクス主義の本格的な研究の基礎を築いた。帰国後25年より九州帝国大学教授となり経済学概論を担当。28年(昭和3)の三・一五事件の余波で九大を辞職(第二次世界大戦後復帰)。37年人民戦線事件との関連で教授グループの一員として検挙される。戦前日本資本主義論争では労農派の代表的論客として活躍し、戦後は山川均(ひとし)とともに社会主義協会を創立して、正統派マルクス主義の立場から労働運動および日本社会党の左派グループに大きな影響を与えた。『資本論』(岩波文庫版)の翻訳のほか、おもな著作として『地代論研究』(1933)、『マルクス経済学の方法』(1959)など多数ある。

[新田俊三]

『向坂逸郎著『経済学方法論』3巻(1950・河出書房)』『向坂逸郎著『マルクス主義と民族問題』(1951・板垣書店)』『向坂逸郎著『マルクス経済学の基本問題』(1962・岩波書店)』『向坂逸郎著『マルクス伝』(1962・新潮社)』

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20世紀日本人名事典 「向坂逸郎」の解説

向坂 逸郎
サキサカ イツロウ

大正・昭和期の経済学者 社会主義協会代表;九州大学名誉教授。



生年
明治30(1897)年2月6日

没年
昭和60(1985)年1月22日

出生地
福岡県大牟田市

別名
筆名=南 啓二

学歴〔年〕
東京帝国大学経済学部〔大正10年〕卒

経歴
大正10年東京帝大助手となり、翌年ドイツに留学、マルクス主義者となる。14年九州帝大法文学部教授に就任するが、昭和3年共産党弾圧の3.15事件のあおりで退官し、労農派の闘将として理論活動に専念。12年の人民戦線事件で検挙されたが、14年保釈。戦後九州大学に復帰。26年には山川均、大内兵衛らと社会主義協会を設立して機関誌「社会主義」を発刊、社会党左派に対する理論的影響力を強めた。また34、35年の三井三池闘争では組合側を指導。35年退官。40年より「唯物史観」発刊。戦後10年がかりでマルクスの「資本論」を翻訳、著書に「資本論体系」「地代論研究」「日本資本主義の諸問題」「経済学方法論」「社会主義と自由」「マルクス経済学の基本問題」「マルクス伝」など多数。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「向坂逸郎」の意味・わかりやすい解説

向坂逸郎
さきさかいつろう

[生]1897.2.6. 大牟田
[没]1985.1.22. 東京
労農派マルクス主義の理論的実践的指導者。 1921年東京大学経済学部卒業,同学部助手,ヨーロッパ留学 (1922~25) を経て 25年九州大学教授。いわゆる労農派の代表的論客として日本資本主義論争に健筆をふるったが,28年三・一五事件の影響で大学を追われた。また 37年人民戦線事件で検挙された (39保釈) 。第2次世界大戦後九州大学へ復職し,60年退官。三池炭鉱労働組合をはじめ労働組合の学習活動に活躍,労働大学,社会主義青年同盟の育成にも努力した。 51年山川均,大内兵衛などとともに社会主義協会を設立し,左派社会党のブレーンとして日本社会党の階級的強化に努めた。 67年同協会分裂後は大内兵衛とともに協会を再建し,その代表となる。マルクス,エンゲルスの論文・著作の翻訳,編集のほか『地代論研究』 (33) ,『日本資本主義の諸問題』 (37) など著書多数。

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百科事典マイペディア 「向坂逸郎」の意味・わかりやすい解説

向坂逸郎【さきさかいつろう】

マルクス経済学者。福岡県生れ。東大卒。九大教授となったが,1928年共産主義を宣伝したとして職を追われ,戦後に復職。労農派の論客で,日本資本主義論争などに活躍した。1951年社会主義協会結成に参加,のち代表。日本社会党左派の理論的指導者で,三池争議にも参加・指導した。《資本論》の翻訳などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「向坂逸郎」の解説

向坂逸郎 さきさか-いつろう

1897-1985 大正-昭和時代の経済学者。
明治30年2月6日生まれ。大正15年九州帝大教授。昭和3年三・一五事件の余波で辞職し,「労農」同人となる。戦後,九州帝大に復職。26年山川均(ひとし)らと社会主義協会を創立。社会党左派でマルクス主義の理論的指導者として活躍した。昭和60年1月22日死去。87歳。福岡県出身。東京帝大卒。著作に「日本資本主義の諸問題」,訳書に「資本論」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「向坂逸郎」の解説

向坂逸郎
さきさかいつろう

1897.2.6~1985.1.22

大正・昭和期の経済学者。福岡県出身。東大卒。ドイツ留学後の1925年(大正14)九州帝国大学助教授,翌年教授。28年(昭和3)3・15事件の余波で大学を追われ,評論活動に入る。日本資本主義論争では労農派の論客として健筆をふるう。37年人民戦線事件に連坐。第2次大戦後九大に復職し,「資本論」の翻訳を完成。社会主義協会の生みの親の1人。著書「日本資本主義の諸問題」。

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367日誕生日大事典 「向坂逸郎」の解説

向坂 逸郎 (さきさか いつろう)

生年月日:1897年2月6日
大正時代;昭和時代の経済学者
1985年没

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