1920年代末以降,日本共産党と対抗した社会主義者および理論家グループの一つ。1927年12月創刊された雑誌《労農》の同人がその中心で,名称の由来もここにある。主なメンバーは山川均,堺利彦,荒畑寒村,猪俣津南雄,鈴木茂三郎,大森義太郎らで,コミンテルンの27年テーゼ,32年テーゼに依拠する日本共産党の民主主義革命論ないし二段階革命論に反対し,共同戦線党による社会主義革命の達成を唱え,日本大衆党,全国労農大衆党などで活動した。これに連なる向坂逸郎,櫛田民蔵,土屋喬雄,大内兵衛,高橋正雄らは,32-33年に《日本資本主義発達史講座》が刊行されると,あいついでその批判をおこない,講座派との間で日本資本主義論争を展開した。その主張の要点は,講座派が日本資本主義における封建制の存在を説くのに反対し,明治維新をブルジョア革命としてとらえ,地主制の半封建的性格を否定するとともに,天皇制のブルジョア的性質を認めることにあり,猪俣の《現代日本研究》(1929),向坂の《日本資本主義の諸問題》(1937)や《櫛田民蔵全集》(1935)などにまとめられた。その後,鈴木および加藤勘十らは日本無産党で活動したが,37年末人民戦線事件として労農派の一斉検挙がなされ,38年2月には大内ら11名の学者がこれに連なるとして検挙された(教授グループ事件)。敗戦後は日本社会党の左派に影響を及ぼし,社会主義協会に拠って活動している。
執筆者:江口 圭一
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昭和戦前期に日本共産党ないし講座派と対立したマルクス主義者の一グループ。福本イズムにより日本共産党が再建されたが,天皇制・地主制の封建的要素を過大評価する27年テーゼ以後の共産党の戦略に反対して,堺利彦・山川均・荒畑寒村・猪俣津南雄(つなお)・鈴木茂三郎らによって1927年(昭和2)12月に創刊された雑誌「労農」に由来。その後日本資本主義論争が展開されると,講座派と理論的に対立した櫛田民蔵・大内兵衛・向坂(さきさか)逸郎・有沢広巳・土屋喬雄(たかお)らの学者グループも労農派とよばれるようになった。近代日本農村の伝統的諸要素を日本資本主義成立過程の特質から説明し,地主・小作関係の非封建制を主張する点にその理論的特徴がある。
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…そのなかで,野呂栄太郎,山田盛太郎,羽仁五郎らの講座派(封建派)は,コミンテルンの指示による日本共産党の二段階革命路線を支持し,明治維新後の日本の農村にも封建的地主制が存続しており,これと都市のブルジョアジーとの双方に支えられた絶対主義的天皇制の変革をともなうブルジョア民主主義革命が,社会主義革命に先だってまず行われなければならないと主張していた。これに対し,山川均,荒畑寒村,向坂逸郎らの労農派は,明治維新がすでにブルジョア革命であり,その後の日本社会は資本主義の発展に規定されており,農民もますます賃金労働者に転化しつつあるとみて,一段階革命路線を支持したのであった。この論争は,1930年代後半の軍国主義化のなかで両派ともに弾圧されて終息する。…
…マルクス主義経済学者。1921年(大正10)東大経済学部卒業後,同助手,ドイツ留学を経て25年に九州大学法文学部経済原論担当教授となるが,28年(昭和3)の三・一五事件の余波で辞職を余儀なくされ,以後労農派同人として37年12月の人民戦線事件で検挙されるまで,改造社の〈《マルクス・エンゲルス全集》〉全32巻の編集,講座派との日本資本主義論争をはじめ広範な文筆活動に従事した。戦後は社会主義運動に携わることを条件に九大に復帰,非共産党マルクス主義者として山川均らと47年に〈《前進》〉を創刊,51年には社会主義協会を設立し機関誌〈《社会主義》〉を刊行して総評や日本社会党内に支持者をひろめた。…
…《講座》に結集した学者たち(通称講座派)は,地主が取り立てる現物・高額の小作料は,小作農民の全剰余労働を搾取する高率小作料であって,本質において封建的な半封建地代であるとした。これに対して,櫛田民蔵,猪俣ら(労農派)は土地は商品化しており,地主・小作の関係は契約にもとづき,土地緊縛などの経済外的強制も存在しないのであるから,本質的にいって近代的な前資本主義地代であると主張した。第2は,講座派の理論的支柱たる山田盛太郎の《日本資本主義分析》(1934)をめぐる批判と反批判である。…
…これがいわゆる〈二段階革命論〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。 これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均,猪俣津南雄,向坂逸郎(1897‐1985),大内兵衛,櫛田民蔵,土屋喬雄(1896‐1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。…
… 福本イズムによって日本共産党が再建された(1926)が,翌年コミンテルンの〈27年テーゼ〉によって山川イズムと福本イズムの双方が批判され,以後,福本イズムを清算した日本共産党はコミンテルンの指導の下で正統派の位置を与えられることになる。これに対して,〈27年テーゼ〉と共産党とに対立する山川,堺らは,雑誌《労農》を創刊(1927)し,非共産党マルクス主義者の集りとして労農派と称された。そのころ,3年にわたるヨーロッパ留学から帰国した哲学者三木清は,雑誌《思想》に《人間学のマルクス的形態》など独自の視点で一連のマルクス主義〈哲学〉に関する論文を発表し,学界や知識人・学生に広範な影響を与え,また羽仁五郎とともに雑誌《新興科学の旗の下に》を創刊(1928)して,マルクス主義を学問の公共圏に導入した。…
…1926年3月に創刊された雑誌《大衆》同人の鈴木茂三郎,黒田寿男,大森義太郎らも合流した。非合法の日本共産党によって刊行されていた雑誌《マルクス主義》等と革命戦略論争を展開したので,講座派に対して本誌に拠る人々を〈労農派〉と呼ぶようになった。その見解は,山川の創刊号巻頭論文〈政治的統一戦線へ!〉によって代表され,当時の国家権力を〈帝国主義的ブルジョアの政治権力〉と規定し,資本家地主のブロック権力論に立つ日本共産党の〈27年テーゼ〉に反対した。…
※「労農派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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