歌舞伎の演技様式の一つ。《暫(しばらく)》や《矢の根》の主人公,《曾我の対面》の五郎,《菅原伝授手習鑑》の〈車引の場〉の梅王丸などに代表される,稚気に溢れ,力に満ちた勇壮活発な人物の行動を表す。六方,見得,つらね,隈取,三本太刀など,独特の表現や小道具を伴うのが常で,7,8歳の子供の心で演じよとか,くくり猿のように体を丸くして演じよといった心得が伝えられている。語源は俗に荒武者事の略といわれているが,定かでない。おそらく御霊神(荒人神)の感覚を伝えた言葉であろう。荒事には,奴系,敵役・公家悪系,実方(じつかた)系の三つの種類があり,ほかに,《助六》の助六,《車引》の桜丸のような,やつし事と融合したものもある。(1)奴系 《曾我の対面》の朝比奈に代表される。元和偃武(げんなえんぶ)以来盛行した奴風俗・丹前風俗を模倣して成立した奴狂言を改革し,道外方(どうけがた)の奴芸を吸収して,六方と奴言葉を中心とする新しい奴の演技を創始したのが多門(たもん)庄左衛門。その庄左衛門の芸を受け継いだ初世中村伝九郎は,さらに,金平(きんぴら)浄瑠璃の主人公坂田金平の荒々しい武道の表現を介して,1688年(元禄1),《大磯通》に奴朝比奈を創始。これを嚆矢(こうし)とする。(2)敵役・公家悪系 《暫》の腹出しやウケなど。敵役の役者が,奴の反社会的な行状を模倣するとともに,激しいたたりをもたらす御霊神の恐しいイメージを介して,赤っ面のすさまじい悪の形象を作り出した。この敵役系荒事に怨霊事を加えて創造されたのが公家悪で,初世山中平九郎をその始祖とする。(3)実方系 すさまじい悪に対立し,それを屈服させる超人的威力を持った善の形象。実方と敵役とを兼ねた初世村山平十郎のような役者が,金平のイメージを介して,悪の力を善のそれへと転換させて生み出したもの。ここからさらに,実・悪の双方を兼ね,奴芸をも身に備えた初世市川団十郎が,御霊神の威力ある祝福性を受けとめて,《暫》の主人公に代表されるような,市川流の荒事を創始した。
→歌舞伎十八番 →御霊(ごりょう)信仰 →実事 →和事
執筆者:今尾 哲也
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歌舞伎(かぶき)独特の演技、演出法。豪傑、神仏、妖魔(ようま)などの超人的な強さを表現するために、顔や手足に隈取(くまどり)をし、鬘(かつら)、衣装、小道具、動作、発声など、すべて様式的に表現する。通説では、初世市川団十郎が当時流行した金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)にヒントを得て、1673年(延宝1)9月江戸・中村座上演の『四天王稚立(してんのうおさなだち)』で初めて演じたといわれるが、その土台には、初期の歌舞伎に多くみられた武士、男伊達(おとこだて)、奴(やっこ)、敵(かたき)役などが演じる荒々しい演技があったと考えられる。ただ「荒事」の語源には、単に荒っぽいという意味のほか、神が現れることを意味する「あれる」があるといわれ、それが江戸歌舞伎随一の名家団十郎の「家の芸」として継承されることによってますます明瞭(めいりょう)になり、江戸歌舞伎の特色として定着するようになったものである。その演出は『暫(しばらく)』『矢の根』をはじめ「歌舞伎十八番」のほとんど全演目に行われ、ほかにも『国性爺(こくせんや)合戦』の和藤内(わとうない)、『菅原(すがわら)』(車引(くるまびき))の梅王丸・松王丸、『千本桜(せんぼんざくら)』(鳥居前(とりいまえ))の忠信(ただのぶ)、『先代萩(せんだいはぎ)』(床下(ゆかした))の男之助(おとこのすけ)など、多くの役に用いられている。
[松井俊諭]
歌舞伎の演技演出術。上方の和事(わごと)に対し,江戸歌舞伎を象徴する。隈取(くまどり)・六方(ろっぽう)・つらね・ニラミ・神仏のまねなどの要素を伴い,非写実的・幻想的な劇空間を創造。基礎を築いたのは初世市川団十郎で,「江戸芝居年代記」は1673年(延宝元)14歳で初舞台を踏んだ「四天王稚立(おさなだち)」での坂田金時役をそのはじめとするが,役者評判記類は85年(貞享2)「金平六条通(きんぴらろくじょうかよい)」の金平役を嚆矢とする。初世団十郎の荒事は,旗本奴や町奴といった無頼の徒が徘徊する江戸の精神風土に根ざし,金平浄瑠璃から想をえたという。その後2世団十郎が「家の芸」として完成させ,天保年間に至って7世団十郎が歌舞伎十八番を制定した。
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…通説に従うと1673年(延宝1)江戸中村座の《四天王稚立(してんのうおさなだち)》に,14歳で初舞台。この時坂田金時の役で,全身を紅で塗りつぶし,紅と墨で顔に隈(くま)を取り,童子格子の衣装に丸ぐけ帯,大太刀をはき,斧をひっさげて登場,豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。…
…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…
…源頼朝幕下の重臣工藤祐経(すけつね)に,父河津祐泰を討たれた遺子の十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)の兄弟が,18年目に富士の裾野の巻狩で工藤を討った事件は《曾我物語》になり,幸若舞,能,古浄瑠璃をはじめおびただしい数の演目で,特に江戸の大衆に喜ばれた。近松門左衛門も人形浄瑠璃のために書いたが,歌舞伎では,江戸の荒事が五郎という人物を典型化したので,代々の市川団十郎がこの役を演じた。元禄(1688‐1704)ごろの上方では,〈盆曾我〉といって7月に曾我物を上演する慣習があったが,1709年(宝永6)以後江戸では正月に曾我を演ずることが多く,享保(1716‐36)ごろからは初春の吉例となって三座ともに必ず曾我狂言を上演する習慣が生まれ(初春狂言),まったく別の世界の人物に対しても,実は曾我五郎という筋にしたりすることになった。…
※「荒事」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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