デジタル大辞泉
「薩摩浄雲」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
さつま‐じょううん‥ジャウウン【薩摩浄雲】
- 初世。古浄瑠璃の太夫。出身地は泉州堺、京都、紀州の三説ある。通称虎屋次郎右衛門。江戸薩摩、薩摩太夫などとも称した。沢住検校に浄瑠璃を習い、寛永(一六二四‐四四)初年ころまでに、京都から江戸に下り、操(あやつり)芝居を興行。硬派な語り口で人気を得た。文祿四~寛文一二年(一五九五‐一六七二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
薩摩浄雲
没年:没年不詳(没年不詳)
生年:文禄2(1593)
江戸初期の古浄瑠璃の太夫。上方の出身で,沢住検校(京の次郎兵衛とも)に学んで虎屋次郎右衛門(あるいは熊村小平太)と称し,寛永初年に江戸に下り,上方で発展してきた人形浄瑠璃を興行し,人気を博したと伝えられる。薩摩藩主島津侯の愛顧を受けて薩摩太夫と名乗り,豪快な語り方で武勇物を得意とし,その曲風は薩摩節あるいは薩摩浄瑠璃と呼ばれて,杉山丹後掾と共に江戸浄瑠璃の開祖とされる。晩年に剃髪して浄雲と号した。正本に寛永11(1634)年刊の「はなや」,寛永末年ごろ刊行の「小袖そが」がある。門弟に虎屋源太夫,桜井丹波少掾,伊勢大掾らがいる。享保(1716~36)のころにその門流から出た大薩摩節は,劇場音楽として今日の歌舞伎に残っている。没年は不詳だが『松平大和守日記』寛文7(1667)年2月の条に「当年七十五に成よし」とある。なお,一般に東京都文京区の栄松院に墓が現存するとされているが,これは門下と伝えられる薩摩外記の供養塔である。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
薩摩浄雲 (さつまじょううん)
生没年:1593-1672(文禄2-寛文12)
近世初期の浄瑠璃太夫。上方の出身で,はじめ京都で修業したといわれるが,後には江戸へ下り,堺町に薩摩座を興して寛永~慶安(1624-52)を中心に活躍した。武勇物を得意とする硬派的な芸風で人気を取り,〈天下無双薩摩太夫〉とも称して杉山丹後掾とともにこの期の江戸浄瑠璃の隆盛に大きく貢献した。弟子には金平(きんぴら)物(金平浄瑠璃)で名高い桜井丹波少掾や虎屋源太夫などがいる。
執筆者:原 道生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
薩摩浄雲
さつまじょううん
[生]文禄2(1593)
[没]寛文12(1672).江戸
江戸時代前期の古浄瑠璃の太夫。前名熊村小平太。京都で修業して江戸に下って活躍し,江戸の浄瑠璃界の隆盛を導いた。薩摩藩主の江戸邸で語って賞美され,薩摩を名のることを許されて薩摩太夫と称し,のち大薩摩とも呼ばれた。晩年剃髪して浄雲と号したが,後継者を助けて出演することもあった。語り物は寛永 11 (1634) 年刊薩摩太夫正本『はなや』をはじめ,『小袖曾我』『酒呑童子』など。門下から伊勢島宮内,虎屋源太夫,長門掾,和泉太夫など江戸浄瑠璃の諸流派が輩出した。大薩摩の呼称は直系の大薩摩次郎右衛門と薩摩外記との2派が継承し,外記の門下から大薩摩節が派生した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
薩摩浄雲
さつまじょううん
(1593―1672)
江戸初期の古浄瑠璃(こじょうるり)の太夫(たゆう)。初世。通称虎屋(とらや)次郎右衛門。出家して浄雲を名のる。正式には薩摩浄雲太夫藤原直嗣。別名薩摩太夫など。出生地は泉州堺(さかい)、京都、紀州と諸説ある。京都で沢住検校(さわずみけんぎょう)に浄瑠璃を学び、寛永(かんえい)年間(1624~44)の初めごろまでには江戸に下り、杉山丹後掾(たんごのじょう)とともに江戸古浄瑠璃の祖となる。語り口は丹後掾と比べて硬派的剛健さが特徴。正本(しょうほん)に『はなや』(1634)ほかがある。なお2世浄雲(?―1690)の出自については不詳。
[岩田道則]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
薩摩浄雲 さつま-じょううん
1593-? 江戸時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文禄(ぶんろく)2年生まれ。京都で沢住検校(さわずみけんぎょう)にまなび,江戸にでて薩摩座をおこし,操り芝居を興行。杉山丹後掾(たんごのじょう)とともに江戸浄瑠璃の祖とよばれる。門人に初代虎屋源太夫,初代桜井和泉太夫らがいる。通称は虎屋次郎右衛門。別名に薩摩太夫など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の薩摩浄雲の言及
【浄瑠璃】より
…その後の展開のうち,義太夫節成立までを〈[古浄瑠璃]〉と呼ぶ。江戸では1616年(元和2)京の滝野検校(浄瑠璃の伴奏に三味線を用いたという)の門人杉山七郎左衛門(杉山丹後掾)が下り,寛永(1624‐44)初めころに下った[薩摩浄雲]とともに操り興行を行った。丹後掾の正本に《清水の御本地》があるが,その末流は扇情的・抒情的な軟派の流風に傾く。…
※「薩摩浄雲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」