日本大百科全書(ニッポニカ) 「大谷幸夫」の意味・わかりやすい解説
大谷幸夫
おおたにさちお
(1924―2013)
建築家。東京生まれ。1946年(昭和21)に東京大学第一工学部建築学科卒業後、同大学院に進み、着任して間もない丹下健三の研究室に入る。その後第二次世界大戦後の多くの丹下のコンペで助力し、広島平和記念公園・平和記念資料館(1955)や東京都庁舎(1957)をはじめとする初期作品の実現に重要な役割を果たした。
1961年に独立し、東京都児童会館(1961)、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)教本部(沖種郎(たねお)(1925―2005)と共同設計。1965、山口県)などを設計。
1963年、注目を集めた国立京都国際会館のコンペで、芦原義信、大高正人、菊竹清訓(きくたけきよのり)らの案を押さえて、最優秀賞を獲得、1966年に竣工する。同コンペでは、2000人収容の大会議場をはじめとした四つの議場、大小のロビー、展示室、事務室といった複雑な建築的要求に対して、各部が自立した複雑な形態で応えた。内部の大空間によって各部を有機的につなげ、特徴的な台形と逆台形の形態で視覚的な統一性を与えた。
1964年に東京大学工学部都市工学科助教授に就任。1965年に新設された金沢工業大学のキャンパス計画を担当、金沢工業大学本館(1969、石川県)などを完成させた。ここでも、さまざまな床レベルをつなぐ吹き抜け空間が、力感的な建築の核になっている。
川崎駅河原町高層公営住宅団地(1972、神奈川県)は、総戸数3600戸の工場跡地の再開発計画で、下部が広がる逆Y字型の断面を採用。建物内部に大規模な共有空間を設け、また、下層部分の日照条件を改善した。
1971~1984年、丹下の後任として東京大学工学部教授を務め、1984~1989年(平成1)、千葉大学工学部建築学科教授。教育者として多くの後進を育て、建築家の職能や都市政策に鋭い提言を行い、建築家が備えるべき論理と倫理について一貫した姿勢を貫いた。
独立直後の論文「URBANICS試論」(『建築』1961年9月号)以来、理論的著述を重ね、論理によって自作を説明してきた。強調されるのは、全体が部分に優越するのではなく、部分が全体を生み出すような関係であり、それらを組織づける空間である。均整的な美学から身を離し、非完結的な形態を追求するとともに、丹下が必ずしも得意としなかった内部空間の充実に意を注いだ。
著述のなかでも示されていた拡張の可能性は、国立京都国際会館の本館増築(1973)、展示場・宿泊施設(1985)、ANNEX棟(1998)や金沢工業大学の3号棟・5号棟(1976)、ライブラリーセンター(1982)などで実践された。表現の次元においては、建築の全体を貫く力強い骨格よりも細部のデザインに重きをおいていた。装飾への志向は1980~1990年代の文京スポーツセンター(1986、東京都)、沖縄コンベンションセンター(1987~2000)、千葉市立美術館・中央区役所(1995)などにもみられる。1983年金沢工業大学の一連の作品により建築学会賞受賞。
[倉方俊輔]
『『大谷幸夫建築都市論集』(1986・勁草書房)』▽『栗田勇監修『現代日本建築家全集18 大谷幸夫・大高正人』(1970・三一書房)』