日本大百科全書(ニッポニカ) 「天津罪・国津罪」の意味・わかりやすい解説
天津罪・国津罪
あまつつみくにつつみ
古代における「つみ」の分類。平安時代にできた『延喜式(えんぎしき)』の大祓詞(おおはらえのことば)では、畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそべ)の8罪を天津罪とし、生膚断(いきはだだち)、死膚断(しにはだだち)、白人(しろひと)、胡久美(こくみ)、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆虫(はうむし)の災(わざわい)、高津神(たかつかみ)の災、高津鳥の災、畜仆(けものたおし)、蠱物(まじもの)せる罪の14罪を国津罪としている。
天津罪は素戔嗚尊(すさのおのみこと)などが高天原(たかまがはら)で犯した罪、国津罪は国津神が日本の国土で犯した罪だとされている。国津罪のなかには白人、胡久美のような疾病や昆虫の災、高津神の災のような偶然の災厄が含まれている。これらの罪は現代では犯罪にならないのであるが、当時これらが罪とされたのは、罪の観念が現代と異なり、宗教が大きな意味をもっていて、神の忌み嫌うことを罪と考えたからである。
天津罪のうち、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺の行為は、いずれも水田の利用を妨害する行為であるが、当時水田の所有権は神によって保護されると考えられていたから、その利用を妨害する行為は神の忌み嫌う行為として罪とされたのである。天津罪・国津罪のその他の事実行為も、また神が忌み嫌うとされたために罪とされたのである。平安時代の初めにできた貞観(じょうがん)儀式の註(ちゅう)に「祓詞にいはゆる天罪国罪の類は皆神の穢(けがれ)とする所悪(にく)む所なり」とあるのはまさに古代の罪の本質をついたものである。天津罪・国津罪というのは、この分類のできた当時において主要とされた罪の称呼であって、これだけが古代の罪のすべてであったわけではない。
罪がこのように、神の忌み嫌うことであるとすれば、これに対応するものは刑罰ではなくして、罪によっておこされた神の怒りをなだめるものでなくてはならない。これが祓(はらえ)(または禊(みそぎ))である。古代の神が清浄を好んで穢を嫌ったということは、結局、古代人が清浄を好み、穢れを嫌ったからである。それが純化されて、罪および祓の観念が生まれたのであり、こういう形式で古代社会の秩序は維持されたのである。素戔嗚尊が、高天原で天津罪を犯すと、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩屋戸にこもり、高天原も葦原中国(あしはらのなかつくに)も暗くなって、万(よろず)の禍(わざわい)がことごとにおこったとされている。これはとくに甚だしい場合であるが、程度の差こそあれ、罪を祓わずにそのままにしておくときは、このような状態になるであろうことは、当時の人々の確信するところであったと思われる。人々は罪のおきないように努め、もしおきたときは、祓を科することによって神怒をなだめ、こうして社会の秩序は維持されたのである。もっとも、古代も後期になると、前記の罪の観念から現世的な犯罪の観念がしだいに分化している。
[石井良助]
『三浦周行著『信仰と法律』(『続法制史の研究』1925・岩波書店・所収)』▽『石井良助著『刑罰の歴史(日本)』(『法律学大系 法学理論篇』1950~1959・有斐閣・所収)』