日本大百科全書(ニッポニカ) 「古代社会」の意味・わかりやすい解説
古代社会(歴史)
こだいしゃかい
総説――古典古代を中心として
時代区分
古代が初めて意識されたのは、ルネサンス期であった。中世的・神学的世界観を克服して人間的・合理的なものを目ざす過程で、ルネサンス期の人々が模範としたギリシア・ローマを古代とし、彼らが生きている近世とその中間の時代を中世としたことにその端を発する。こうした考え方は、ドイツの学者ケラーによって、17世紀に、古代、中世、近代の三区分説として定式化された。このルネサンス以来の伝統的な三区分説と、マルクスの『経済学批判』の序言で提起された「経済的社会構成体の前進的諸時代」における「アジア的、古代的、封建的そして近代的、市民的な生産諸様式」が結合して、原始社会、古代社会、中世封建社会、近代市民社会という時代区分が行われるようになった。したがって古代社会とは、単に古い時代の社会をさすものではなく、歴史的個性をもって現れる諸社会のなかで、原始社会と中世封建社会の中間に位置づけられる。それゆえ、主として原始社会を問題にしたモルガンの『古代社会』は、ここでいう古代社会と概念上一致しない。
[土井正興]
概念・特質
もともと古代社会という概念は、ヨーロッパで、ヨーロッパの歴史のなかから発見されたものであるが、それは世界史のなかに普遍的に存在するものとされ、その普遍的特質を何に求むべきかが追究された。この特質を問題にする場合、この概念が生産関係を基軸とする社会発展を念頭において形成された経過からみて、マルクスによって提起されたアジア的・古代的生産諸様式が古代社会とどのようにかかわり、それらと奴隷制がどう関連するかが問題とならざるをえない。さまざまな論争を経て、アジア的生産様式が抹殺され、古代社会=奴隷制社会という定式が認められたのは、1934年のソ連においてであった。ここでは、大多数の民族は社会的発展のなかで奴隷制社会を通過するとされた。奴隷制社会において最初の階級分裂が行われたとされ、古代社会は、原始社会の崩壊後発生した最初の階級社会とされた。奴隷制社会は、ギリシア・ローマだけではなく、オリエントやアジアの古代社会においても現れたが、東洋的社会においては、土地国有、基本的生産手段の独占化などの古代奴隷所有者的構成の東洋的変形がみられるとされた。
当時のソ連の古代史家は1952年の『古代世界史の構成』において、古代社会は2段階を経過すると主張した。すなわち、(1)家父長的奴隷制、商品経済の未発達、小生産者の広範な存在を特徴とする初期奴隷所有者的関係の支配的な時代と、(2)発達した生産力、商品生産と結合した奴隷制、基本的生産分野における奴隷労働の優位を特徴とする発達した奴隷所有者的構成の支配的な時代とである。ここでは、ヨーロッパ、アジアを問わず、古代社会における初期奴隷制から発達した奴隷制への展開が想定されている。こうしたソ連の多数意見に反対して、古代オリエントと古典古代とを二つのタイプを異にする奴隷制社会とし、それぞれ固有の発展経路を経て、それぞれ特殊な封建社会に移行するというテュメネフの見解もある。
[土井正興]
古代社会の性格規定
日本においては、第二次世界大戦前から戦後にかけて、社会の発展法則が、日本の古代社会においてどのように貫徹するかを検証することが課題であり、どのようにして奴隷制社会と規定できるかが問題とされた。そのなかで、日本やアジアにおける奴隷制は総体的奴隷制allgemeine Sklavereiであるという見解が優位を占めた。同時に、日本における重要な問題意識は、原始社会が崩壊して古代社会が成立する際、なにゆえにアジア的共同体が専制君主を頂点とする古代専制国家に展開し、古典古代的共同体が民主政的な都市国家の成立につながるか、ということであった。いわば、アジアとヨーロッパにおける古代社会のあり方の違いがどこに由来するか、ということであり、マルクスの『資本制生産に先行する諸形態』で提起された、アジア的共同体、古典古代的共同体が古代社会の質とどのようにかかわるか、ということであった。
太田秀通(ひでみち)は、このあり方の違いの根源が、原始社会から古代社会への移行期にあたる「英雄時代」での共同体の変容過程にあるとし、ミケーネ社会の構造を分析し、その結果、オリエントと古典古代は奴隷制社会における量的発展の違いにあるのではなく、社会関係の構成原理の違いであり、オリエントの古代社会は奴隷制社会としてとらえられるべきではなくて、アジア的生産様式としてとらえられるべきだとした。この際、塩沢君夫が、従来総体的奴隷制と理解されていた律令(りつりょう)制までの日本古代社会をアジア的生産様式と把握したことが、太田の念頭にあったことはいうまでもない。したがって、太田によれば、マルクスの『経済学批判』の定式どおりの発展を古代社会においてもみねばならず、原始社会から生まれる最初の階級社会はアジア的生産様式であり、ギリシア・ローマの古代社会は古代的生産様式ということになる。ここでは、古代社会=奴隷制社会という定式は否定され、オリエント的古代社会=アジア的生産様式、ギリシア・ローマ的古代社会=古代的生産様式ということになる。
この場合、アジア的生産様式には家父長的奴隷制、アジア的な共同体的生産関係などが、古代的生産様式には小規模家内奴隷制、労働奴隷制、古典古代的な共同体的生産関係などが並存するが、それを規定する主要な生産関係はおのおのアジア的共同体、古典古代的共同体のそれであり、奴隷制ではない。古代的生産様式では、発展の頂点においてのみ奴隷制が主要な生産関係になりうる。太田によれば、古代的生産様式に帰属するのは、ギリシアではミケーネ的国家の成立から、ローマではセルウィウス・トゥリウスの改革から、西帝国では少なくとも帝国滅亡まで、東帝国ではユスティニアヌスまでであるが、このうち奴隷制を支配的生産関係とする奴隷制社会となりうるのは、古典期、ヘレニズム期のアテネ型ポリスと、共和政後期から帝政初期にかけてのローマ社会に限定される。
弓削達(ゆげとおる)は、太田と同じく、奴隷制社会の実存を共和政から帝政にかけてのローマのイタリア本土やシチリア島において確認しているが、彼もまた、古代社会=地中海世界が奴隷制社会といえるかどうかを、市民共同体の運動を中核に据え、それと奴隷制との関連を問題にしつつ、ローマ帝国を題材にしつつ検討している。弓削によれば、地中海世界の構造は、ローマ市民共同体が、敗れた他共同体の成員を奴隷として、各地の共同体を外人peregriniとして従属させる、奴隷支配と外人支配との2本のパイプによって成立しており、市民共同体の運動は奴隷制を発展させ、周辺の共同体は中心の奴隷制社会に吸収される可能性をもち、地中海世界は絶えず奴隷制社会への傾斜をもつ「可能的奴隷制社会」ではあるが、ローマの平和以降の阻止的要因によって、奴隷制社会への転化の道が閉ざされた、とする。その場合、支配共同体の母地で奴隷制社会が確認されるだけではなく、従属共同体においても奴隷制社会が検出されることが、古代社会=奴隷制社会論を可能にする鍵(かぎ)であると考えられている。
太田、弓削の議論は、共同体論を導入して、従来の古代社会=奴隷制社会論を再構築する試みであったが、太田が、それをマルクスのアジア的生産様式=オリエント的古代、古代的生産様式=古典古代として理解するほうに力点を置いたのに対して、弓削は、従属共同体の問題をも含めて、それを、より構造的に把握しようとしている。しかし、それらはまだギリシア・ローマ社会を射程に置いたものであった。これに対して、熊野聡(さとる)や松木栄三は、ローマ世界と周辺の未開人社会を総体として構造的に把握する必要性を提唱した。すなわち、ローマにおける市民と奴隷、市民相互の関係、ローマ世界と蛮族世界、これら諸関係の構造的相互連関の総体が、古代的生産様式をとるローマに主導された世界史の段階の内容として理解されている。いわば、ギリシア・ローマの社会は、それを古代社会たらしめている周辺の未開人=蛮族社会との複合的な統一体として把握しなければならぬという主張である。
[土井正興]
封建社会への移行
このような問題把握の特徴は、古代社会から封建社会への移行の理解にもっとも端的な形で現れる。いわば、未開人社会は、ローマによって絶えず奴隷化される社会であり、ゲルマン民族の移動は、そのくびきを捨て去る闘争であり、それは複合的世界に内在する矛盾の展開によって、古代社会を終わらせ、中世への転換を画した「革命」的な政治過程であると評価される。この熊野、松木の見解は、古代社会=奴隷制社会論が定式化されたとき提起された、スターリン・テーゼ「奴隷の革命が奴隷制的搾取形態を廃絶」をまっこうから否定するだけではなく、従来のローマ帝政以降のローマ帝国内部の奴隷制の衰退、コロナトゥスの普及が奴隷制社会の基礎を掘り崩し、封建社会に漸次的に移行したとする考え方とも対立するものである。古代社会から封建社会への移行に際して、こうした未開人の側からの問題と、内部の社会的・経済的条件の変化とがどのように関連するのか、それをどのように統一的に把握すればよいのか、が課題として提起されているといえよう。
このことは、古代社会における階級闘争の把握の仕方にも微妙な影響を与えている。太田によって簡潔に表現されているように、古代社会の階級闘争の主要な形態が、ポリス国家の発展過程に至るまでは貴族と平民、富裕市民と貧民との対抗と闘争であり、世界帝国形成過程では、奴隷反乱と異民族下層住民の反ローマ闘争であり、ローマ帝国後期においては奴隷、コロヌス(小作人)、異民族の反乱であるとするのが一般的理解であった。熊野、松木は、古代末期については、これにゲルマン民族の移動を付加し、これに重要な意義を与えている。熊野は、古代社会最大の奴隷蜂起(ほうき)、スパルタクスの蜂起についても、奴隷の階級闘争としてよりも、周辺の未開人による古代世界克服史上に位置づけるべきだと主張している。太田、弓削は、奴隷を共同体を喪失したものととらえることによって、奴隷の闘争を共同体回復闘争として把握しようとしている。古代社会=奴隷制社会という定式をより具体的・弾力的に把握しようとする模索のなかで、奴隷蜂起を単に奴隷と奴隷所有者との間の矛盾を表現する階級闘争として理解するだけではなくて、その性格をめぐってさまざまな意見が提起されている。古代社会の性格を規定し、その構造的特質を明確化する課題は、その実証、理論両面の深化とともに、今後に残されている。
[土井正興]
オリエント
社会・経済の特徴
オリエントは、ヘロドトス以来、強弱はあれ、西洋の民主政に対する東洋的専制君主政として特徴づけられている。そして専制君主政の生成基盤は、一般に灌漑(かんがい)に求められている。
古代オリエントの主要生産は、農業(大麦・小麦)と牧畜であり、とくに農耕が天水によらず人工灌漑とその維持機構を整備することで、チャイルドのいう都市革命を招来した。灌漑が王権に依存することは、たとえばエジプト最古の王の一人「さそり」の碑文が運河開削に言及し、メソポタミア初期王朝時代(前24世紀)の王碑文に神殿建立と並んで運河造りの記事が散見することから首肯でき、また当時の行政経済文書から、初期王朝、ウル第3王朝(前21世紀)、古バビロニア(前18世紀)各時代を通じて、王が軍事・集団労働組織を掌握し、平常運河工事に使役したことを確認できる。
古代オリエントの王権は、神権的性格を備えていた。たとえばエジプトの神王観、メソポタミアにおける王の神格化、王は神の胤(いん)の理念をあげられるが、王が全土の唯一の所有者とか、ひとり王のみが自由で万民は奴隷であるという規定は事実として認定しがたい。
エジプトは早く統一王朝を成立させ、中央統制的地方制度によって貢租、賦役、徴兵体制を整えた。メソポタミアではシュメール以来の都市の独自性が維持された。ウル第3王朝時代の都市支配者はウル王に対し「汝(なんじ)の奴隷」と称し、また都市の上級官僚もこの都市支配者に対して「汝の奴隷」と自称した。この時代以降、小作契約にみる土地私有制の増大、私的商人の活躍など私的経済が躍進し、また長老会などの自治的組織を典型とする都市の伝統的自立性、これらのはざまで王権は家内奴隷的重層の擬制を伴って、いわば王の「オイコス経済」(不自由人労働を含む大家計内の自給自足的自家生産)の拡大として支配体制を強化したのである。王領地の一部は賦役を代償として兵士などに分与された。つまり、古バビロニア時代までの社会階層は、自由民、奴隷、広義の王室所属員に3区分されよう。また、この時期、シュメール、アッカドの諸都市は最高神エンリルに輪番で奉仕し、この祭礼的秩序がウル王と諸都市間の支配秩序となったのであろう。周辺地域の異民族はウル王に朝貢することで、ウル王朝の支配に組み込まれたのである。
もう一つの重要な経済要素、遠隔地交易は、エジプト、メソポタミアともに、本来的には王室の独占であった。
神殿はエジプトにおいて王権を凌駕(りょうが)する一大勢力となる場合があった。これは、首都の神殿を中心とした教団が各地に有した広大な所領を背景としてのことであろう。メソポタミアでは各都市の有力神殿は経済的にも一大勢力であったが、しかし、全土に広がる所領を形成できず、王権の庇護(ひご)のもとでのみその勢力を維持できたのである。
[前田 徹]
インド
時代区分
インド亜大陸では紀元前2300年ごろから前1700年ごろにかけてインダス文明の繁栄をみたが、文字が解読されていないため、この時代は今日なお先史(原史)時代として扱われている。いわゆる「歴史時代」は前1500年ごろのアーリア人の来住をもって始まる。そして、これ以後イスラム教政権が成立する13世紀初めまでの約2700年間が、一般に「古代」とよばれてきた。しかしこの時代区分は、支配者が奉じていた宗教の違いに基づく便宜的なものにすぎない。これに対し、唯物史観の発展段階説を適用しインド古代を奴隷制社会としてとらえる試みもなされているが、インド古代の奴隷がほとんど家内奴隷であり、彼らが生産活動において果たした役割は小さかったため、この時代区分も説得力に欠ける。アジア的生産様式ないし総体的奴隷制の概念を適用できるか否かは、今後の検討課題である。
一方、グプタ朝(4~6世紀)の末期以後に、都市の衰退、地域的自給自足経済の普及、中小領主層の出現など、「中世社会」の成立を示す傾向が顕著となる。こうした「中世社会」との関係を考慮しつつ「古代社会」の特色を列挙するならば、次のようになる。
[山崎元一]
特色
インドの古代社会は四つのバルナ(種姓)の大枠に区分されていた。すなわち司祭階級バラモン、王侯・武士階級クシャトリヤ、農牧商に従事する庶民バイシャ、隷属民シュードラである。このバルナ制度は、アーリア人が定着農耕社会を完成させた後期ベーダ時代(前1000~前600年ごろ)にガンジス川上流域で成立し、その後アーリア人の進出、アーリア文化の伝播(でんぱ)に伴い周辺諸地方に伝えられた。身分制度の固定化を目ざすこの制度は、農村社会を背景にバラモンによって唱導されたが、都市の住民はそうした身分の固定化には批判的であった。バルナ制度の大枠はインド史の各時代を通じて維持され、「中世」以後、この大枠のもとにカースト間の分業関係からなる地域的な社会、経済が成立してゆく。
インド古代国家の頂点に位置するのは、マウリヤ朝(前4世紀末~前2世紀初)の建設した帝国である。この王朝では、広大な帝国をかなり整備された官僚機構を通じて支配し、遠方の属州には王の一族を太守として派遣している。領内にはなお半独立的な土着勢力が存在していたが、この王朝が中央集権的な統治を目ざしたことは確かである。この点、服従を誓った地方君主の統治権を認め、彼らと「封建的」主従関係を結ぶという後世の統治形態とは性格を異にしている。
王権と土地所有の問題についてみるならば、古代インドに王を「大地の主」とする王権論は存在したが、これは象徴的な意味で用いられたものであり、経済的な意味での土地所有とは区別されねばならない。耕地は一般に耕作者あるいは地主によって所有されており、村落の住人の間には、所有する土地の広狭、家畜の多寡に応じた貧富の差が存在していた。また租税は、生命、財産の保護を受ける代償として王に納めるべきものとみなされていた。王はあくまでも俗界の「主」であり、バルナ社会の最高位に置かれたバラモンとは身分の隔壁で分けられていた。こうした聖俗両権の分離により、祭政一致のうえにたつ王権の発達は阻まれた。クシャン朝(後1~3世紀)以後に王の神格化が進むが、一方ではバラモンによる自己の神性、不可侵性の主張も続けられている。
インド古代ではまた、都市と商工業の発達がみられた。都市では商人や手工業者のギルド的組織が活動し、遠隔地の諸都市を結ぶ交通路の整備も行われた。こうした都市経済の繁栄は、諸王朝が発行した貨幣によっても知られる。都市にはまた伝統にとらわれぬ流動性があり、身分制度に否定的な仏教やジャイナ教が、商人や手工業者の援助を受けて栄えた。「中世」に入ると都市の経済活動は衰え、それに伴い貨幣の品質は低下し発行量も激減する。また都市の宗教である仏教が衰退し、農村社会を基盤とするヒンドゥー教が民衆の間に深く浸透してゆく。
[山崎元一]
中国
時代区分をめぐる学説
中国の古代社会を問うことは、古代の終末をいつと考えるかにも関連する。ところが、史実の理解や歴史学上の概念の解釈などの違いから、意見は多岐に分かれている。
[五井直弘]
日本の学説
わが国で初めて体系的な中国史の時代区分を試みたのは内藤虎次郎(とらじろう)(湖南)である。内藤は中国文化の発展を基準に時代区分を行い、後漢(ごかん)(25~220)の後半までを上古とし、これを、中国文化が形成された前期と、中国文化が外部に発展していわゆる東洋史に変形した後期の2期に分け、ついで後漢の後半から西晋(せいしん)(265~316)までを第一過渡期、五胡(ごこ)十六国(304~439)から唐(618~907)の中ごろまでを、外部種族の自覚によってその勢力が反動的に中国内部に及んだ中世とした。宇都宮清吉(きよよし)は、内藤の見解には中国文化の内的発展が軽視されているとして、中国文化があらゆる可能性を極度にまで推し進め、展開したのが古代で、秦(しん)・漢帝国はその総帰結であったが、同時に秦・漢時代は自律的な中世の始まりでもあったとした。同じく内藤説を継承する宮崎市定は、世界の歴史は都市国家、領土国家、大帝国という発展形態をとったが、中国の場合にも後漢末までの古代は、無数の城郭都市が集合した時代で、人民の城郭外の居住はまれであった。これが三国以降隋(ずい)・唐に至る中世になると、都市と農村とが併立したとしている。
これに対して内藤説を批判的に継承した前田直典は、秦・漢・六朝(りくちょう)期の耕作者は奴隷であり、均田農民はその負担からみて半奴隷的であったとして、唐の中ごろまでを古代とした。この前田の見解は日本古代史の研究の影響が強く、また東アジア諸民族の歴史発展の連関性が考慮されており、唐の中ごろまでを東アジア文明圏もしくは東アジア世界形成の時代とする考えがこれから導き出されてくる。一方、前田が根拠とした奴隷制論は、史的唯物論の発展法則を中国史に導入したものであるが、中国における奴隷制のあり方については、労働奴隷制の存否、マルクスの遺稿『資本制生産に先行する諸形態』に示された総体的奴隷制、これと関連するアジア的生産様式、農村共同体などの解釈ならびにその中国史への適用をめぐって、多くの議論がある。ただ、わが国の研究に共通する点は、西嶋定生(にしじまさだお)の個別人身的支配論、増淵竜夫(ますぶちたつお)の郡県制成立論、木村正雄の治水灌漑(かんがい)論などに代表されるように、秦・漢統一国家を皇帝による中央集権的専制支配体制の成立ととらえ、その形成、存立の諸条件を考察することに力点が置かれていることである。
[五井直弘]
中国の学説
中国においては、古代はいうまでもなく奴隷制である。郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)は古典古代的集団奴隷労働を想定して西周奴隷説を唱え、奴隷制の中国的特殊性を主張して、西周封建制説を唱える呂振羽(りょしんう/ルーチェンユ)と対立したが、その後郭沫若は、奴隷制の下限を春秋戦国(前770~前221)の交とし、この説が長年主流となってきた。もっとも、当時から、奴隷制の下限を漢代にまで引き下げる王思治などの意見も存在した。文化大革命後、論争が活発となると、郭説批判が百出して多くの意見が提出されたが、それはおおよそ、(1)殷(いん)末(前11世紀)、(2)西周末(前8世紀なかば)、(3)春秋末(前5世紀末)、(4)秦の統一期(前3世紀後半)、(5)秦・漢交替期(前3世紀末)、(6)前漢末(後1世紀初)、(7)後漢末(後3世紀前半)の7種に大別できる。ただ、郭説のように古典古代的な奴隷制を想定する説は少なく、奴隷制のアジア的形態を考えようという意見が多いが、その場合に、マルクスが『ベラ・ザスーリッチへの手紙』のなかで指摘した農村共同体の概念、あるいはアジア的生産様式の概念をもってこれを解釈しようとする試みが多い。
一方、中国における階級国家の成立については、日本を含めて議論が少なく、わが国には殷または殷・周を王国とよんで、春秋以降の国家と区別する考えがあり、中国では夏(か)以来とする説のほか、盤庚(ばんこう)の遷都、周初の諸侯封建以後とする説などがあるが、その場合、城郭の築造をもって国家成立の指標とする意見がある。
[五井直弘]
日本
「古代社会」という語を、今日の学界の通念に従って「奴隷制社会」とすると、その奴隷の概念については諸説分かれるにしても、いちおう日本にも古代社会が存在していたことを認めることが一般化している。日本では西洋の奴隷にあたるものを奴婢(ぬひ)とよび、それはいずれの時代にもみられるところから、これが生産上の基本となっていた社会がどの時期にあたるかについては、多くの説が分かれている。その成立の時期を3世紀から7世紀末とし、8世紀から10世紀の中ごろまでを全盛期、以後12世紀の末までを崩壊期(農奴制社会=封建社会への移行期)とする説が通説とされているのに対して、3~4世紀を最盛期、5~6世紀をすでに崩壊期とする説、あるいは14~15世紀がその崩壊期とする説、さらに16世紀末までを古代社会とする説などがある。各説は、それぞれの史料解釈のうえにたってはいるが、しかしまだ一般論としては承認されてはいず、したがってここでは通説に従う。
[竹内理三]
古代社会の成立
日本の原始共産制社会に関する史料は乏しく、文献に現れる時点では、すでに古代社会の段階に入っていたようである。それは、『前漢書(ぜんかんじょ)』『後漢書(ごかんじょ)』にみられる紀元前後の倭(わ)は、部落国家形成の段階にあり、生口(せいこう)が国王の中国皇帝への貢献物となっていることにもうかがえる。しかし明瞭(めいりょう)になるのは、3世紀なかばの邪馬台国(やまたいこく)の社会である。その女王卑弥呼(ひみこ)は、シャーマン的性格によって国王に擁立されたが、常時1000人の女奴隷をはべらせていたし、その社会には大人(たいじん)と下戸(げこ)という身分上の差別があり、罪を犯した者は奴婢の地位に落とされるという国法が行われていた。当時の生産様式は奴隷の労働力を基本とするものであったと推測される。
[竹内理三]
部民制社会
4世紀後半になると、大和(やまと)王権による国土統一が完了するが、その権力構造は、天皇氏族を中心とするヤマト地方の諸豪族の連合政権という性格が強く、その経済的基盤としての屯倉(みやけ)、田荘(たどころ)の設定や、その労働力としての部民(べみん)の編成が行われた。その編成される経過をみると、(1)旧来の村落がそのまま部民とされたもの、(2)本来の居住地から引き離して、新たに設定された屯倉、田荘の田部(たんべ)に編成されたもの、(3)犯罪によって部民の地位に落とされて編成されたもの、(4)大和王権の朝鮮半島経営により日本に移されて部に編成されたもの、など部民の成因は多様であるが、いずれも臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、あるいは伴造(とものみやつこ)などの姓(かばね)をもつ豪族の支配を受け、その豪族の名のる氏(うじ)の名に「部(べ)」の一字を加えた名を負うて、豪族のための生産に従事し、あるいは豪族を通じて大和王権の賦役や貢納物の生産に従った。こうした部民は、大化改新後の律令(りつりょう)制から逆推すると、奴隷制的なものに近かったということができる。もちろん、部民とよばれるもののほかに、奴婢とよばれる階層もあって、部をもたぬ大社寺では、数百、数千を数える奴婢を擁し、大氏族の族長もまた数百の奴婢をもった。部民制は、大和王権が政治権力によって強制的に編成したものであるので、その進行につれて、幾多の矛盾を生じた。なかでも、旧来同一村落内の成員が、それぞれ異なった氏族の名を負う部に分割されて、地域的な共同体が解体される危険性を高めたばかりでなく、一家族内でも、兄弟や父子がその属する部を異にして、家族分解さえもたらす混乱を生んだ。
[竹内理三]
公民制社会
大化改新は、こうした部民制の矛盾と、この部民制を基盤とする大氏族の覇権争いの解決のために行われた政治革新である。したがって、政治的には氏族制的な政治体制の廃止、社会的には部民制の廃止を最大目標とした。臣、連、伴造、国造(くにのみやつこ)による政治体制を廃止して、新しく官人制による八省百官制の採用、私地私民制を廃止して公地公民制の実施が、改新政治の進行を示す尺度となった。旧氏族の族長の地位は、氏上(うじのかみ)としてその社会的地位は存続されたが、政治を行う者の地位は官位制によって秩序づけられ、職務を分掌することとなった。地方は、中国風の国郡制が敷かれ、中央政府の任命した官人が治めることになった。全国画一的な様式による戸籍が中央政府の命令として作成され、全国の住民は直接国家の公権力に把握されることになった。部民は、その一部を除いて、すべて公民とよばれることになった。701年(大宝1)に制定され翌年から実施された大宝(たいほう)律令は、こうした政治体制、社会体制の法文化を完了したものである。公民は「調庸の民」ともいわれたように、国家に調、庸を納める人民として把握され、本籍地以外の地に移住する自由は制限された。当時約600万~700万人と推計される全人口の大部分を占める。令制では、6年ごとに全国民の戸籍をつくって登録し、6歳以上に達した者に対し、男子は田2反、女子はその3分の2、奴婢に対しても、奴は良男の3分の1、婢は良女の3分の1の口分田(くぶんでん)を班給する、班田収授法を行った。この法は、律令国家の公地主義を貫徹する基本的施策として、かなり忠実に実施することが努力せられた。班給額は人別割であったが、現実的には、戸主がまとめてこれを経営し、反別稲2束2把(まもなく1束5把と改定)の田租を国家に納める。戸主の経営労働力は、戸内の正丁(せいてい)(21歳から60歳の間の男子)を主力とする成年家族であり、奴婢もその一員として動員される。こうした意味で公民が生産の主体であった。
しかし一面、公民には、調、庸、雑徭(ぞうよう)などが義務として国家から課せられる。調、庸は、農耕のかたわらに生産される絹、布などの手工生産物であり、雑徭は、年間60日以内公共工事=官舎の修造、道路、堤防、池溝の構築などの労役に無償で従事する賦役である。口分田の班給は、公民をこうした課役に従わせるためのものであるとさえ考えられた。正丁1人の租、庸、調、雑徭の負担を稲で換算すると、租4束4把、庸10束、調20束、雑徭は60束、計94束4把にあたる。雑徭は日数で60日にあたるので、94束余は94日余となる。年間3か月は国家のための生産に従うこととなる。そのうえ、正丁3人のうち1人は兵士として徴発される。兵士の武具、食糧は、兵士を出した戸が負担するので、兵士1人出せば、こうした負担のためその戸は滅びるとさえいわれた。兵士自身の調、庸、雑徭は兵士役に振り替えられるが、戸にかかる負担は、前の94日余をさらに増大することは疑いない。公民は、国家から義務のみ課せられ、権利はなかった。
これに対し良民の上層部を構成する官人層は対照的である。官人は、すでに大化改新の際に、大夫(国政に参与する者=官人)を厚遇することは民のためになるという理由で、食封(じきふ)や俸禄(ほうろく)を設けることを約束し、令制で具体化し、著しく特権的地位が与えられた。
官人の任用は、個人の才能を基準とする個人主義をたてまえとしているが、大化前代の氏族制は根強く残って、才能主義は氏族制の家格主義に圧倒せられ、大化前代の大氏族の族長クラスがそのまま律令国家の官人の地位を占めるのが実状で、令制上の特権と相まって、官人の貴族化が行われた。このことから、古代の氏族が、部民制による人民支配が困難になったので、族長が個々の族長の権力を一つの公権力に結集して、局面の打開を図ったのが大化改新であり、律令国家であるとする説が生まれた。この説では、公民制は、モンテスキューのいう「政治的奴隷制」、あるいはマルクスのいう「総体的奴隷制」にあたるという。また、律令制がよくその生命を保った8世紀から10世紀ごろまでが、古代社会の全盛期とする説にもなる。
[竹内理三]
公民制の崩壊
公民制は、班田収授法と本貫地法(本籍地に固定する原則)のうえに成り立っていた。したがって、この二つの法の崩壊過程が公民制の崩壊過程となる。その兆しは、すでに8世紀もかなり早い時期から現れる。まず班田収授法は、田地の公有を前提としたものであるが、日本の班田法の範とした中国の均田法では、墾田を公有に繰り入れる配慮がなされていたが、日本ではその配慮をしなかったため、人口は増加しても田地は増さず、大宝令施行まもなくその打開策を必要とした。723年(養老7)の三世(さんぜ)一身法はまずその手始めである。これは口分田以外の田地の私有を許さぬ公地主義の修正であるが、それでは墾田開発の意欲をそそるに足らなかった。そこで743年(天平15)に墾田永年私財法を発布した。これは、開墾には国司の許可のもとに、一品(いっぽん)親王および一位の官人500町歩以下、庶人は10町までの、位階による段階をつけた最高額を定めて、その範囲内での墾田を永代私有することを認めるというものである。まさしく律令制の田地公有主義を放棄したものであった。もちろん墾田といえども、開田の田租は徴収したので、国家の田地支配権を放棄したわけではないが、以前から田地以外の広大な山林原野の占有を行ってきた大社寺、上層官人、諸豪族は、この法令を根拠として盛んな開墾を進めた。その開墾の労働力には周辺の農民が駆り出され、ために農民は自らの農耕を行う暇もないほどであった。765年(天平神護1)道鏡(どうきょう)政権は、寺院以外の墾田を禁止したが、道鏡没落直後の772年(宝亀3)ふたたび禁は解かれて、以後、墾田開発は、百姓の業を妨げないことだけを条件として、無制限となった。となれば、農民も、回収される口分田耕作を放棄しても、墾田開発に努力を集中する形勢となるのは当然である。そのうえ、国家は、急速に開発される水田を公有田に繰り入れる配慮は依然としてしなかったので、大土地私有の進展するに反比例して、本来の班田収授はますます困難さを増し、902年(延喜2)以後行われなくなった。
一方、公民制の崩壊も、平城京の経営のための役民の動員を契機として急速に展開した。造都の動員を嫌って農民は逃亡し、あるいは調、庸を忌避して本貫を離れて流浪する浮浪人が、大きく社会問題化した。こうした本貫地を離脱した公民は、地方の土豪や中央の王臣家のもとに収容されて、その駆使に服し、労働力を必要としている大土地所有者の下に走って、その開墾に従事した。国家は、こうした浮浪人に対し、現住地で調、庸、雑徭を徴収する土断(どだん)法を試みたが、効果はなく、8世紀の末には諸国の調、庸は激減する形勢にあった。こうした情勢に対処して823年(弘仁14)大宰府管内で公営田(くえいでん)方式を採用し、これを諸国にも試み、879年(元慶3)には、官田を設けて農民の自主契約による賃租経営(小作契約による経営)をも採用せざるをえなくなって、農民に対する国家の公民束縛はますます困難となってきた。
[竹内理三]
荘園制社会
総体的奴隷制社会を認める説では、この奴隷制の崩壊を、この社会内部の奴婢家人(けにん)の自立化がそれであるとする説がある。確かに8世紀には賤民(せんみん)階級の解放が相次いでおり、10世紀の初頭には奴婢の存在は法的に否定されるに至っている。しかし総体的奴隷が公民身分にあるとすれば、公民制の崩壊こそそれにあたる。公民制社会の段階での農業経営は、口分田耕作はともかく、初期荘園(しょうえん)や勅旨田や公営田の経営には、農具、役畜、その他の生産手段はすべて土地所有者(貴族あるいは国家)のもとに集積されており、種子農料から食料までも支給された。公民と賃租契約を結んだ場合でも大差はなかった。しかし、10世紀ごろを境にこの関係に変化が生まれ、土地経営を農民の請作(うけさく)にゆだねる方式が支配的となった。この時期では、農民はもはや公民とはよばれず、田堵(たと)とよばれ、農民的な小規模な土地所有を基盤に(それは口分田の私有化、小規模開墾の治田(はりた)である)、寺社・貴族の荘園の田地を請作するものである。明らかに公民の農民的小地主への転化である。しかしなお大土地所有者側の法的権利は、律令法を基礎として強く働き、田堵は毎年春に荘園領主と請作契約を結び、領主から田地の割付けを受け(散田(さんでん)という)、秋に小作料を未進すれば、翌年の契約は拒否された。こうした関係が在地の大土地所有者と農民との間に成立したとき、領主の形成をもたらす。11世紀は、こうした在地領主層の形成期であり、彼らは、内部には田堵との対立を、外部には、律令法を根拠として官物(租、庸、調)を追求する国司との対立を深めたが、内外から自己を守るために、国家の中枢を握る権門勢家や大社寺に名目的にその所領を寄進して一定の年貢を納入し、自らは世襲的な荘官として実質的に領主権を確保する途(みち)を選んだ。そしてこのような在地領主層が急速に各地に成立していった。この段階では、かつての公民は農民的土地所有者に成長し、生産は向上し、一方、公民制下では卑賤とされた各種手工業者も解放されて、一般需要に応ずる生産者となり、中世社会成立の諸条件を整えた。14~15世紀を古代社会終末とする説である。これに対し、領主下の農業生産は依然として古代的家父長制下の奴婢的労働力が主体であり、それが解放されるのは太閤(たいこう)検地であるとするのが古代社会16世紀終末説である。
[竹内理三]
『太田秀通著『東地中海世界』(1977・岩波書店)』▽『太田秀通著『奴隷と隷属農民』(1979・青木書店)』▽『弓削達著『地中海世界とローマ帝国』(1977・岩波書店)』▽『永原慶二・阪東宏編『講座 史的唯物論と現代3 世界史認識』(1978・青木書店)』▽『ホルスト・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代バビロニアの歴史――ハンムラビ王とその社会』(1980・山川出版社)』▽『コーンサンビー著、山崎利男訳『インド古代史』(1966・岩波書店)』▽『ロミラ・ターパル著、辛島昇他訳『インド史1・2』(1970、72・みすず書房)』▽『シャルマ著、山崎利男・山崎元一訳『古代インドの歴史』(1985・山川出版社)』▽『西嶋定生著『中国古代の社会と経済』(1981・東京大学出版会)』▽『堀敏一著『近年の時代区分論争』(『中国歴史学会の新動向』所収・1982・刀水書房)』▽『石母田正著『中世的世界の形成』(1950・東京大学出版会)』▽『竹内理三著『荘園制の貴族政権Ⅰ・Ⅱ』(1958・御茶の水書房)』▽『松本新八郎著『中世社会の研究』(1956・東京大学出版会)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』(1959・御茶の水書房)』
古代社会(モルガンの著書)
こだいしゃかい
Ancient Society
19世紀後半のアメリカの進化主義的人類学者モルガン(モーガン)の著書。1877年刊。人類の社会・文化を生活技術に基づいて、野蛮(下・中・上)、未開(下・中・上)、文明の段階に区分し、社会集団、出自制度、政治体制、財産制度といった社会生活の諸側面の相関関係によって、すべての社会が経る同一の継起段階として人類の生活を再構成しようとした。その際に、親族分類や名称体系を分析して、家族および婚姻の形態に独自の考察を行い、全体を有機的に関連づけた。この点が後の社会人類学における親族研究の先駆けとして評価されている。いまではさまざまに批判されるが、当時の人類学の成果が総合され図式的にまとめられたモルガンの学説は、「未開」とされた社会の研究者に大きな影響を与えてきた。
[小川正恭]